備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎「リベラリズムの存在証明」エピローグ

 メモ。

 通常理解されるところでは、フーコーの新しさは、権力を単に主体の行為を外側から型にはめたり操作したりするものとしてではなく、主体そのものを成形し、生産しているものとしてとらえられているところである。フーコー以前の「不可視の権力」論は、大体においてマルクス主義の用語で言えば「イデオロギー」あるいは「虚偽意識」なる概念の引力圏内にあった。それらは欲望そのものが他者によって操作される可能性を認めつつも、介入され操作される以前の本来の真の欲望、主体性といったものを想定していた。そしてそのような想定を行う分析者自身は当然、このような真の主体性に覚醒している、とされる。フーコーはこのような本来の、真の主体性といったものを想定しない。(中略)
 再度確認すれば、フーコー的権力分析においては、その分析対象の背後に権力によって歪められた真の主体性を発見する必要がないのと同時に、当の分析主体、自己の内にそれを見いだす真の知を想定する必要もない。「批判の根拠」は敢えて言えば、批判の所作に先立っては存在せず、有意味な、有効な批判がなされたときに初めて事後的にのみ見いだされる。すなわち、批判がよくなされたという事実自体が「批判の根拠」なのである。ある主体のなしうる行為の可能性、選択肢の幅、知識、あるいは動機付けが、その主体自身に知られることなくあらかじめ制約されていたということ、しかしその制約をなくす、あるいは変更することは可能であること、が事実として発見され示されれば、その知識自体が「不可視の権力」に対する「批判の根拠」となる。(中略)
 ラディカリズムへのフーコー的批判は、例えば古典的自由主義による批判、典型的にはハイエクのそれとは異なる。ハイエク社会主義などの設計主義的社会構想を「理性の傲慢」と批判するが、逆に社会主義の方には、ブルジョワ的理性の独善への批判があった。しかしハイエクは後者を無視するか、あるいは、後者のブルジョワ的悪を克服しようとする試みは結局より大きな前者の設計主義の悪に導く、と判断しているのである。(中略)フーコー的批判はいかなる形であれ特権的な「真の」何者かを置くことを認めない。「消極的自由」を称揚する古典的自由主義の個人的主体性もまた特権的な「真理」ではなく、批判に開かれている。(中略)
 フーコー以後の視点からする、従来型の「不可視の権力」論による全体主義論の批判などはもちろん、さして重要な問題ではない。はるかに重要なのは、フーコー的批判は全体主義それ自体について何が言えるのか、である。そして結論を先に言えば、答えは消極的なものである。前章で私は、自由主義にとっての全体主義という悪の問題について考察し、自由主義はこの敵に対してよく抗することができない、と述べた。(中略)しかし同じことはフーコー的な、批判的思考としての自由主義についても言える。