備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

中山元「フーコー入門」(1)

フーコー入門 (ちくま新書)

フーコー入門 (ちくま新書)

序 現在の診断−フーコーの方法

  • フーコーは〈現在〉の意味を分析し、その成立の根拠と背景を考察し、この社会で生きることの意味と問題を問い直す−−「現在の〈われわれ〉とはどのようなものであるか、現在われわれが語ることには、どのような意味があるか」。

第1章 人間学の〈罠〉

  • フーコーは読もうとする主体の中に存在する〈盲目性〉に固執。眼が眼自体を見ることができない様に、読むという行為にもある読み得ない〈盲点〉、意識されないことによってそもそも読む対象として構成されず気付かれない領野が存在。フーコーの「問う主体」は、問いの客体そのもの。
  • 「真の心理学」は、人間学的な理論の基づき人間の解放を目指すもの。現象学的な分析は、患者の主観的な疎外からの自由を回復し、マルクス主義的な心理学は、患者の客観的な疎外(社会における物象化)からの自由を回復する−−フーコーはこの2つの一挙の達成を目指す。実存分析の手法による心理学とマルクス主義的な心理学は、人間の自然な〈本質〉という概念を共通の前提とするが、この人間学的な前提は、人間を解放するのでなく抑圧を強化する可能性がある。

第2章 狂気の逆説−『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』

  • 監禁の対象であった貧民は、自由主義的な新しい経済学によって生産の循環の中に位置づけられる。監禁施設は無駄なものとなり、フランス革命以前に、狂気が〈自由〉になる条件は満たされていた。
  • 精神医学が科学となったから狂気が疾患として認識されたのではなく、狂気が「精神の病」として位置づけられたからこそ、精神医学と心理学は可能となった。狂気の歴史を描くことは、心理学が誕生する条件を描くこと。人間に関する多くの学問は、欠如や異常性を学問の根源とする。

第3章 知の考古学の方法−『言葉と物』『知の考古学』

  • 戦後のフランス思想界を支配したのは、歴史の方向という概念を提示したヘーゲル主義と、歴史の方向性を洞察し自己の行動を決定する実存主義ヒューマニズム。しかし、歴史に目的があるとの考え方は、抑圧的な機能を果たす。「目的」「正義」に適った行為をしていると確信している人物は、他者に過酷な抑圧を行使することをためらわない。
  • フーコーは、人間に認識された現象としての「物の秩序」は人間の思考により始めて可能になるものであり、当然人間の思考の秩序と一致すると考えたカントの立論を踏まえ、物の秩序を認識するためには、その認識を可能にするための条件(歴史的ア・プリオリ)が必要と主張。存在する物の秩序を認識するためには、ものの認識に先だって一つの知の枠組み(エピステーメ)が必要。
  • 重農主義と有用性の理論の対比(略)。
  • 同一性と相違性に基づいて物の秩序を形成するという特徴を持つ古典主義時代のエピステーメにおいて、人間は至高の位置を占め、世界に秩序が見いだせるのは、人間が表象し語るから。にもかかわらず、生身の客体としての人間は不在。近代の思考では、人間の有限性とは生命、労働、言語の実定性であるが、それが神という無限の能力を持つものに対して否定的に構成されるのではなく、逆に認識の限界が、生命、労働、言語についての知の可能性を積極的に基礎付ける。
  • アルシーヴ(事件としてのエンノセの不可視の総体)という概念は、超越論的な目的論の無効性を宣言し、実際に語られたエンノセの一回限りの事件性を分析。

第4章 真理への意志−『監視と処罰』

  • 系譜学は、真理を絶対的なものと考えず、様々な力の競合と対立関係の中で成立する〈暴力の帰結〉と考える。真理は戦いの武器。系譜学はメタ歴史ではなく、〈実際の歴史〉を考察することによって、真理などの形而上学的な概念の歴史性を明らかにする。
  • フーコーは、権力を主体の内部から機能する力として分析。権力は抑圧的なイメージではなく、真理を語ると自称する者とその真理を信ずる者の間、日常生活の隅々に張り巡らされた人間の間の力関係の網の目として理解される。
  • ベンサムが考えたパノプティコン(一望監視装置)では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がなく、監視される可能性があることで監視される者の内側に第二の監視者が生まれる。この装置は、資本主義社会の基本的なモデルとなり、この装置の機能が被支配者の精神と身体を拘束し、道徳性の向上や生産性の改善が目的とされる。

第5章 生を与える権力−『知への意志』

  • フランス革命以前は、王は「死を与える権力」であったが、革命によって王を殺戮し、独立した有機体のような感受性を持ち始めた市民社会の権力は、「生を与える権力」〈生−権力〉となる。社会が生物体のように存続することを自己目的とするようになると、社会の構成員をよりよく〈生かす〉ことが重要な課題となる。
  • 性の装置について(略)。
  • 社会が欲望の装置によって人々を組織しようとする時に、個人が社会の生−権力に抵抗することのできる重要な根拠は、自己の身体とその欲望。正常性と規範性を協調する社会に対し、フーコーは自己の欲望の充足と生存と幸福の実現を求める権利を対置することで、社会の在り方を変えていく可能性を示唆。

第6章 近代国家と司牧者権力

  • 国家が戦争という形で大衆を虐殺し始めたのは、国家が国民の健康を気遣い始めた時代でもある。生−権力の社会は、国民の生の尊重を謳う社会であるが、〈人種〉という原理は、国民の中の生かしておく部分と殺してしまう部分を分離するために利用される。
  • 中世の政治的な機構である帝国と、社会的な機構である封建社会から、近代的な国家が自立するための基本的な原理として「国家理性」の概念が必要とされる。これは、国家の〈力〉そのものを目的とする原理であり、国家の存続そのものを自己目的とする。キリスト教の権力理論(司牧者権力)はこれと同じ構造を持つ。

第7章 実存の美学−『快楽の活用』『自己への配慮』

終りに 真理のゲーム

  • 生−権力という「悪魔的な権力」に抵抗するための2つの可能性として、(1)自己と自己の欲望を放棄しないこと、と(2)真理の概念を放棄してそれをゲームとみなすこと。真理を語る(パレーシア)とは、「真理のゲーム」に参加すること。絶対的な真理が存在するのでなく、ここの真理は自由な主体の行為としてしかあり得ないということは、全ての主体は自分なりの真理の確立に参加することができる。