バートランド・ラッセル「幸福論」(3)
- 作者: B.ラッセル,安藤貞雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1991/03/18
- メディア: 文庫
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実践的幸福論
ラッセルの幸福論は、文献や対象を研究することで紡ぎ出されたものではなく、内省によって生み出されたものである。そこには、幸福に生きるためのヒントがある。ラッセルにとって不幸とは、あまりにも自分自身に関心が強すぎるがために生じる。自分への関心が強くなると、周囲との比較に囚われ、ナルシズム、虚栄、誇大妄想、妬み、見せびらかしの消費を生み、世評を気にして生き続けることになる。また、周囲が自分に無関心である場合、世の中の人々は自分を迫害していると考えたりもする。
自分への過度の関心から逃れるための一つの方法は陶酔であるが、それによって得られる幸福はいんちきで不満足なもだとラッセルは言う。本当に満足できる幸福とは、己の能力を完全に発揮させてくれるようなものに出会い、行動を通して得られる心の状態である。他者への尊敬に感銘を受けるナルシストのように生きるのではなく、他者の行動そのものに関心を向けることが、幸福に至る道である。
内省的な幸福論の限界
このように、ラッセルの幸福論は実践的なものであるが、同時にそれが内省によって生み出されたものであるが故のタガを嵌められたものでもある。例えば、幸福の経済学では「主観的幸福」を研究の対象とするが、結果として、その主観性によってタガを嵌められた議論を展開している。同一の文脈の中にある者同士の幸福度は、同一の尺度で比較することが可能かも知れないが(この点についても、必ずしも、統一的な見解があるわけではない)、異なる文脈の中にある者同士を比較する術はない。ラッセルの幸福論も、幸福の経済学の抱える主観性の限界という事実と同じ問題を有している。*1
貧しい国のささやかな幸福をその「外」にある豊かな国からみれば、その幸福をもはや幸福とは感じられないことに気付くだろう。このような事実を経由すると、幸福を「豊かさ」に優先させる価値観には、批判的にならざるを得ない。*2情報に自由にアクセスできることは、時に人を不幸にするが、その自由を制限することで幸福が可能になるとしても、そのような政策を「外」にいる人間は賛同するだろうか。自分には、とても賛同するようには思えない。不幸になる可能性がない限り、本当の幸福も得られないのだ。
他者の欠如
更に言えば、内省的・主観的な幸福論には、他者がいない。つまり、ラッセルの幸福論から、他者との絆とそれがもたらす感情の起伏について理解することはできない。この事実は、ラッセルの愛情や家族についての認識に顕著に表れている。
愛情に関する章に次のような記述がある。
ほかの人を心配するのは、自分自身のことを心配するよりも、ややましなものでしかない。その上、それは、まま所有欲のカムフラージュになっている。つまり、ほかの人の不安をかき立てることで、彼らをもっと完璧に支配する力を得たいと願っているのである。
このような意味での愛情は、自己愛の延長であり、心の中の「不在」としてしか認識し得ない他者との絆をそこから導くことはできない。同時に、その愛情の対象は、容易に差し替えることのできるものでしかない。
もしかすると、幸福という概念は、そもそも他者を想定しないものなのかも知れない。そうだとすると、幸福は、時に悲劇を生むことにもつながる。幸福とは、よいものであると同時に、ある種の不気味さをともなうものでもあるのだ。(これ以上の議論は、今後のエントリーに譲る。)