備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎「モダンのクールダウン 片隅の啓蒙」(1)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

第1章 ポストモダンとは何(だったの)か

  • 大衆社会論のいかがわしいところは、裏に透けてみえるエリート主義。第一に、大衆社会論者が由緒正しい近代人の末裔である保障はなく、今や大衆社会論自体が大衆化。第二に、啓蒙的エリートの善意というお節介。第三に、大衆社会論者が何をしたいのか、そこに展望がない。大衆を「畜群」呼ばわりしなければ自己確認できない強者のどこが「超人」か。大衆批判の大衆化、大衆が大衆を(自己批判という痛烈な自覚なしに)批判して楽しむのがポストモダニズム
  • 近代的な「物語」は、公と私の明確な区分の上に成り立つ。公共的なテーマは、基本的には、個人の私的な生とのつながりにおいて扱われる。個人の私的な生は、公共的な社会とは別世界。近代的な物語は、公的な世界であれ私的な世界であれ、世界の「外」にあって世界「について」語るが、伝統的な物語は、公的な世界の「中」にあり、語ることによって出来事の記憶を保存し、構築する導きの糸ないし骨組み。

第2章 物語の解体と消費

  • 東浩紀は、近代の「大きな物語の終焉」のあとに来た「大きな非物語」に「データベース」という形容を与え、ポストモダンを肯定的・積極的な言葉で捉えるが、いくつかの疑問。伝統と近代を分かつのが主人公または作者としての「個人」の本格的登場であるとすれば、(物語が解体、機能不全に陥った)ポストモダンにおいて、「個人」なるものは存在するのか。
  • 大塚英志によれば、データベースからのサンプリング、リミックスという創作スタイルは、ポストモダンに特有なものではなく、芸術、芸能の歴史においてむしろ伝統的。近代リアリズムは、そのような伝統、「お約束」からの開放を目指した。近代においては、「作者」の創造力が特権化されるとともに、「現実」を素材に物語を作る。「作者」と「現実」がクロスするところに、私小説的「私」が成立する。

第3章 「リアリズム」と「お約束」

  • リアリズムの「リアリティ」とは、登場人物の行動や心理の「リアリティ」であり、「作品世界が現実世界と同一(というより同質)であること」ではない。モダニズムの前衛文学がいらだち、破壊しようとした近代リアリズム文学の「お約束」とは、「『お約束』とは意識されない、される必要のない『お約束』」としての《現実世界》の拘束。本来は伝統的な「物語」からの開放を目指し、その開放を実現したと自惚れながら、結局はそれ自体がまた一個の「お約束」に堕し、しかもそのことに無自覚である─。
  • ジャンルSF・ファンタジー的な架空世界でのごっこ遊びが大衆的な娯楽として広く受容されるような状態が、まさに「ポストモダンの条件」。このSF的・ファンタジー的な道具立ての集積を、東浩紀ならい「データベース」と呼ぶことができる。

第4章 表現における「公共性」

  • リアリズムにおける作品世界は、作り手と受け手が共に生きる現実世界について共有しているイメージ、「共通認識」の中に位置している。この「共通認識」のことを「公共性」(閉じられた共同性≒「お約束」ではない)と呼び換えても構わない。
  • ポストモダン風の言い方をするならば、近代文学とは、「近代的自我」の形成へと人々を導く「規律訓練」の装置の一種であり、その限りにおいて近代的な「個人」「主体」を、そしてそれを通じていわゆる近代社会なるものを生産していく力(フーコー的な意味での権力)である。近代リアリズム文学は、《現実世界》の自由度の捉え方によって、「公共性」を体現、ないし少なくともそれを基本理念として目指しているとみることができる一方、近代文学の理念としての公共性は単なるお題目、偽装された共同性=「お約束」にしかみえなくなる反面をも持つ。近代人のよそ者嫌い、「監禁」の対象。

第5章 テーマパーク化する世界

  • アレントによれば、「仕事」とはその中に人が住まう公共世界を形あるものとして作りだすこと。「行為」とは公共世界の中での人と人との係わり合い。近代化とともに、私秘的であった「労働」が公共世界にどんどん現れるようになる。自給自足では完結せず、市場経済のネットワークが広がる。資本による文化の実質的包摂。アレント的な図式に従えば、「労働」の側に属する娯楽は、消費され移ろいゆくものであるのに対し、文化・芸術は永続性を志向する。アレントの「社会」は、動物の群れの域を出るものではなく、「労働する動物」の「社会」はそれ自体「世界」ではないのはもちろん、「世界」の中にもなく、「世界」を支える基盤。
  • テーマパークでは、圧倒的な物量作戦で、観客を一時的にであれ公共世界から隔離する。そこには、外側も、私的空間もなく、鑑賞者を囲い込み、逃がそうとしない力への志向がある。テーマパーク的な力は、「規律訓練」型権力と異なり、それと気付かれず、コミュニケーションの主題ともならないようなレヴェルにおいて作動。その権力は、人々の支持、積極的な加担によって進められる。

第6章 人工環境と《現実世界》

  • リアリズムの想定する《現実世界》は、実際には普遍的な「公共性」ではなく、それ自体ローカルな「共同性」に過ぎなかったのかも知れないが、それは既成事実として、多数の人がそこに安住する「共同性」であり、「公共性」を目指す者の方が少数者として排除されかねないほどの力を有していた。「テーマパーク」的架空世界は、現実と共存し、実在する現実世界の一部として既成事実化する。
  • 〈当事者〉=サバルタンの語りの不可能性。語れるようになったときには、既にそのリアリティを過去に対象化していて、既に〈当事者〉ではなくなっている。蓮見重彦によれば、「サバルタン・スタディーズ」は、「語り得ぬもの」を示すことができず、せいぜい「語り得ぬもの」に迫った優れた文学作品のガイドをするのが関の山。

第7章 「動物化」論の着地点

  • 脱構築を、言葉を尽くした果てに否定形において語り得ない「根源的」なものを示すという営為だとすると、たくさんの人々がそれぞれの経験に即しそれぞれ抱える「根源的」で無意味なものは、その点において同じものにみえてしまう。殆ど不可避であるようにみえる否定神学に抗すべく見出す「郵便的脱構築」のデリダは、東にとって何かの役に立っているのか。
  • 存在論脱構築」は、「解釈学」の中で安定していた位置を得ていたはずのある物事に、別の解釈を割り当て、別の可能性を見出していく運動(逆・系譜学)であるとすると、「郵便的脱構築」は、「逆・考古学」であり、「解釈学」的にはっきり意味づけられていたはずの歴史上の出来事に対して、別の理解を与えるどころか、理解不能の「幽霊」にしてしまう。デリダや東が過去についてのある種の反実在論懐疑論の上に議論を進めるのに対し、永井均は、ストレートな実在論に立つ。「歴史」には、パースペクティブとしての「歴史」と、具体的な出来事の時間の中での連鎖、因果連関の総体としての「歴史」という二つの相がある。
  • 本田透によれば、「萌え」とは架空のキャラクターに対する「脳内恋愛」で、「萌える」のは鬼畜になりたいから。脳内恋愛は、人に傷つけられる危険が格段に少なくなると同時に、他人を傷つける危険を完全に避けることができる。一方、東の「キャラ萌え」はシニシズムであり、無意味なものに無意味さを知りながらあえてコミットする、という身振り。これは、大塚が危惧する「動員」への準備態勢に他ならず、「テーマパーク」に囲い込まれて現実に無関心となる、無力な「動物化」された主体の作法。
  • 存在と非在の間の決定不能性に揺れる「幽霊」とは異なり、永井の「考古学」の対象たる「汚名にまみれた人々」は明確に存在。「キャラクター」もまた反対方向から決定不能性を免れており、端的に非在であり、かつそれは唯一の神ではない。

第8章 等質空間からの脱出

  • 宮台真司は、人々がそれぞれの狭い共同性に引きこもり、公共性を展望しないことを肯定し、むしろ能力も資質もないのに下手に野心や問題意識にとりつかれ、公共性に投企することの危険性を説く。一方、一部のエリートは、もっとシリアスに公共性に投企し困難な生を生きねばならない。しかし、「エリート」と「大衆」との間にどれほどの違いがあるのか。オルテガの「専門家=大衆人」論、分業=専門化による疎外。「エリート−大衆」の図式はリアリティを失っている。「無知の知」を体現した「常識」ある「庶民」自体が、一方では「精神なき専門人」=無反省なテクノクラート、他方ではいわゆる「大衆」という二種類の大衆人と対決せねばならない。
  • 柄谷行人の言う「教える−学ぶ」立場への転回は、共同性の外に出て「公共性」を構築すること。語り手は、「お約束」を破る自己の主体性を意識した「作り手」となる。作り手として他者にその語りを贈るとき、自分の物語を他者が聞き取ってくれるかどうかの保証はない。永井は、「教える−学ぶ」立場は、共同性の閉域にとどまる「語る−聞く」立場の外に出るものではなく、実は常にすでにより広い「語る−聞く」立場によって支えられるのではないか、と疑問を呈する。その外部(他者)を許容しない「教える−学ぶ」関係の共同性こそ、「近代」が創り出した新たな高次の等質空間であり、真に暴力的な閉域。「共同性」の外に「公共性」があるわけでなく、そういう意味での「外部」自体、今やほとんどなくなっている。「監禁」は「排除」と異なり、救済ではあり得ない。違うタイプの「監禁」としてのテーマパーク。
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