備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

柄谷行人『世界史の構造』

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

 この本は、3年前に読んだ『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)の内容を敷衍しつつ、より詳細に記述したものとなっている。これまでのカント、マルクスについての研究を世界史という視点から肉付けし、いわば「柄谷史観」というべきものの総まとめとしての位置づけを有している。いいかえれば、本書はあくまで「総まとめ」であって、それを超えるような意義をその中からみいだすことはできない。現時点の社会・経済を考えるという視点からは、本書の記述から何らかのリアリティを感じ取ることは、少なくとも現時点ではできなかったように思う。*1

 ここでいう「柄谷史観」とは、世界史を「交換」という構造を中心に据えて捉えるものであり、それによって、国家やネーションは、資本主義経済(資本の蓄積過程)とは独立した「上部構造」としてあるのではなく、資本=ネーション=国家というわかちがたく結びついたもの(ボロメオの環)であることが指摘される。
 交換には、市場を介した商品交換(交換様式C)のほかに、互酬(交換様式A)、再分配(交換様式B)という二つの形態がある。商品交換は、共同体と共同体の間に成立する。では、共同体の内部に交換はないのかといえばそうではなく、贈与と返礼という互酬がある。ここでいう共同体とは、氏族、血族や、ときにひとつの国家を形成する民族のように、そこに属する構成員が一種の「愛」によって結ばれた関係(メンバーシップ)であると考えることができよう。共同体と共同体の間には、商品交換よりも前に暴力的な略奪が起こる可能性がある。そしてこれが継続的なものである場合、貢納制国家が成立する。そしてこの関係を継続的に続けるためには、さまざまな意味での再分配が必要となる。このように柄谷は、間−共同体的な空間の中に生じる脅迫を起源として再分配という交換の形態が生まれることを指摘している。
 柄谷は、国家に先行して再分配という交換様式が存在するとし、国家の成立を共同体と共同体の間といういわば「外部」からの視点から捉えている。実際、国家の本質とは戦争のような「例外状態」において表れる。そうした観点からみると、国家を主権者である市民らの社会契約として捉えるジョン・ロックの国家観はナイーヴである一方、主権を得る方法としては「獲得されたコモンウェルス」という「恐怖に強要された契約」がより根源的であることを主張した点において、トマス・ホッブズが再評価される。

 柄谷はさらに、ここに交換の第四の形態として交換様式Dという、いまだ成立し得ていない交換の形態を持ち込む。この交換様式は、再分配という国家の原理とは対極にある。また、個々人が共同体の拘束から解放されているという点では商品交換とは似ているが、同時に、それがもたらす競争や格差に対して互酬的なものを目指している点で異っている。これは理念であって、現実には存在しない。柄谷はこれを「交換様式Aの高次元での回復」であるという。

 交換様式Dは、先ず古代帝国の段階で、交換様式BとCの支配を越えるものとして開示された。それはまた、そのような体制を支えるだけの伝統的共同体の拘束を越えるものでもある。ゆえに、交換様式Dは交換様式Aへの回帰ではなく。それを否定しつつ、高次元において回復するものである。交換様式Dを端的に示すのは、キリスト教であれ仏教であれ、普遍宗教の創始期に存在した、共産主義的集団である。それ以後も、社会主義的な運動は宗教的な形態をとってきた。

 互酬とは、通常の考えでは、その広がりには限度があり、しょせんは共同体の中の構成員の間にしか成立し得ないものである。しかし柄谷は、マーシャル・サーリンズの理論を援用することで、その可能性をより広く捉えようとする。互酬には、世帯の中でみられるような無償的な善意に満ちたものから、部族間圏域の経済的駆け引きや「血讐」のような否定的な側面を持つものまで、さまざまなものがある。この後者の側面からみると、互酬は必ずしもその広がりに限度があるものとはいえなくなり、それによって、国家のようにハイアラーキカルな構造をもつものとは異なる、より高次の共同体が成立する可能性がみえてくる。互酬は、贈与する義務と、それを受け取り返礼する義務を部族間に生じさせ、それによって諸部族間には強い紐帯が生じる。これは、国家のようにその内側に不平等が生じ得る関係とは異っており、同時に、贈与の力によって不平等が抑制されるような社会的紐帯が形成される。

 互酬について、贈与の力により高次の共同体につながり得る可能性をもつものとみる柄谷の見方は、容易には納得し得るものではない。互酬が形成されるような場では、それぞれの構成員の間にある種のメンバーシップがあることが要請されるであろう。つまり、先日のエントリーにおいて指摘したつぎのようなことを、再びここでもくり返すことになるだろう。

「きずな」とは、それがより身近な範囲に限定されることでより強化され、人間を「身内原理主義」へと容易に陥らせてしまうものでもある。それをより「遠方」においても求めようとすれば、理解し得ぬ〈他者〉のような存在に対しても「配慮する」という姿勢をとることになるだろう。
・・・
 このように、〈他者〉に対して開かれ、連帯する人間となり得るためには、通常の理解を超えるほどの想像力が必要であろう。

http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20100811/1281530197

 資本、ネーション、国家とは、市場における商品交換、互酬、再分配と関係し、資本と国家は、ネーションという「想像の共同体」によって分かちがたく結ばれている。国家の揚棄によって、新たな世界共同体を想像的に構想する柄谷の立場にとって、ネーションを想像的に創り上げた構成員同士の関係、いうなれば「低次元」の互酬とは異った、共同体に縛られることのない自由な個人が自律して関係するより高次元の互酬的交換の可能性を夢想することは、必然的な成り行きであるともいい得るだろう。
 一方、リバタリアンとは、国家から資本を独立させるものであり、それによって格差を是正する再分配の力を弱め、「想像の共同体」の中にある紐帯をゆるめるとともに、人間が個別ばらばらな存在として生きることを要求し、それを可能にする原理であるとみなすことができる。

貨幣の「根拠」

 本書にいう国家の揚棄という方向性は、そもそも懐疑を持たせるものである。柄谷は、貨幣について、つぎのように指摘する。

 世界貨幣は共同体や国家を越えて「普遍的に」通用するものである。その意味で、世界貨幣は普遍的貨幣である。先に述べたように、世界貨幣は世界帝国において出現した。しかし、それは世界帝国の力によるものではない。世界貨幣(金や銀)そのものの普遍的な力によるのである。帝国がおこなうのは鋳造によって、金属の含有量を保証することでしかない。その意味で、世界帝国が世界市場をもたらしたということができる。しかし、世界貨幣のもつ力はあくまで、国家によるものではない。それは商品交換から生じたのである。

 金本位制の時代とは異なり、現代の世界貨幣である主要通貨は不換紙幣である。それは、その素材そのものに価値はないが、国家の負債としての裏付けを持つものである。中央銀行は、この見方からするとビークル(導管)のようなものとなろう。*2ただし、それは金利と貨幣量の調整を通じて、経済そのものに影響を及ぼし得るような意志を持つ「ビークル」である。不換紙幣が「金や銀」と置き換わることで、世界経済は貴金属の量によって制約されることはなくなり、一方、一国の経済は国家(中央銀行)の政策によってグリップされることになる。
 このように考えると、リバタリアンの中に、国家から独立した資本や市場という原理をみることもまた、国家に対するナイーヴな見方である。リバタリアンの原理とは、資本を天下り的に「総資本」という存在に結びつける柄谷の理論の枠組みからは捉えきれないものなのではないだろうか。オイルショック以後の「新自由主義」的な時代というのは、むしろ「総資本」という存在そのものが見失われ、「個別資本」が優位に立つ時代なのではないかと思える。

 なお、『世界共和国へ』については以前に感想を書いているが、変更すべきことは大筋ではみあたらない。しいていえば、互酬あるいは「交換様式D」のような形式の存在に、少しリアリティを感じるようになっている。しかし、自分にとってそれは何らかの理屈で後付けできるものではなく、子供を通じた人間関係や他人の介助が必要になった親の様子を横目でみたりする中で「体感」的に得られたものである。「グリーン・ジョブ」といった言葉を使う人たちも、同じような「体感」を有しているのではないだろうか。(むろん、それは一時的なブームにすぎない可能性が高いものだとしても。)
 なお当時は、以下のような言葉で感想を閉めていた。

 柄谷行人氏の著作については、「内省と遡行」「探究」等から始まり、10数年来読んでいるのだが、もはや柄谷理論は「揚棄」されるべき時点に来ているのかも知れない。

 いま思えば、このようないいぶりはあまりにも傲慢である。このような発言は、自分自身がそれを「揚棄」し得るほどの見識を有するまで控えるべきであろう。いまの自分には、柄谷を経由せずして自身の理論を構築することなどはできそうもない。

(了)

*1:よって、そもそもここにその感想をあえて書くつもりはなかったのだが、大著であるという事実にかわりはなく、あえて書いてみることにする。

*2:上述のような柄谷の視点に立つと、不換紙幣とはその価値に根拠を持たないものとなる。それは岩井克人貨幣論』と同じ陥穽に陥ることにつながるだろう。(http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20100209/1265725605