備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

オリバー・ウィリアムソン(浅沼萬里、岩崎晃訳)『市場と企業組織』(4)

市場と企業組織

市場と企業組織

 続く二つの章では、支配的企業と独占の問題(独占禁止政策上の課題と、政府介入を正当化する新たな解釈としての市場の失敗による解釈)、および、それが寡占に係る問題とは異質である可能性についての指摘がなされている。

 同書によると、米国の独占禁止政策(シャーマン法第2条。なお、本書の出版は1975年)では、市場の独占状態が優れた製品・経営手腕、ないし歴史的偶然によってもたらされたものである場合、ある企業が支配的地位にあることは法律に反するものではないとされる。このため、ある企業が支配的地位を無制限に続けることは許されるべきではないと考える独占禁止法の実施当局は、市場の独占状態という構造的な条件とは無関係の根拠によって、独占禁止法上の訴訟を提起することとなる。
 支配的企業の存在は、それが競争制限的な行動をとっておらず、このため独占禁止法の適用が免除されているとしても、望ましくない結果をもたらすものである。同書では、たとえ市場の独占状態が優れた製品・経営手腕、ないし歴史的偶然によってもたらされたものであったとしても、おおくの場合は訴訟を提起し得る「市場の失敗」の表れだとみて、そのための条件付けを行っている。特に重要となってくるのは、当該事業における参入障壁の高さである。特に、大きな革新が起こりにくく革新は改良的なものに限られるような成熟期にある事業では、新規参入は、ノウハウの欠如、顧客関係の確立、評価のための実績の記録がなく初期費用を調達することが難しいことなどから困難なものとなり、先発者の優位性は大きなものとなる。(同書の付注では、このことを簡単なモデルによって示しており、既存企業と新規参入企業との間に費用格差があることが、先発者の優位性が高いことの与件となっている。)有能な管理者の企業間異動も、年金受給権の非継続性などの制度的な制限や、「和合の問題」とよぶ企業内の協力関係やコミュニケーションの問題から、必ずしも容易ではない。また成熟期の事業は、不確実性の程度も小さくなる。
 こうしたことから、同書では、「一定の年数にわたり企業が支配的地位を享受したあとで、そうした支配的企業をくつがえすために政府は介入すべきだ」との考え方をとっており、独占禁止法の解釈にあたっては、「ある産業で一つの企業が持続的に支配的地位にあることは、その産業が高度な発展段階に達しているものと判断できさえすれば、違法と推定しうる根拠がある」とし、その根拠として、「産業がいったん成熟段階に達すると、支配的企業の成立という結果は市場の諸力だけでは短期間のうちに解消できる見込みがない」という判断をおいている。

 一方、寡占の場合には、支配的企業と独占の問題の場合とは異なり、「寡占を形成している諸企業が協定を締結し、実行に移し、履行を強制する」ことは、本稿の最初に取り上げた人間の諸要因(限定された合理性と機会主義)、および環境の諸要因(不確実性・複雑性と少数性)によって、一般に指摘されているよりも困難なものであるとしている。
 特に、寡占企業間で実行可能な協定を締結するためには、最大化する対象となる「結合利潤」を計測することが必要であるが、そのための理想的な条件は、「同質的な商品、同一の水平的な直線をなす平均費用曲線、および静態的市場」というものである。(これは、例えば情報通信や電子デバイスに係る産業などが相当するであろう。)こうしたコモディティ型商品を生産する成熟産業では、確かに寡占企業間の協定は容易となるが、一般論としていえば、「寡占を形成する諸企業を何らかの包括性をもった共同独占とみなすのは素朴すぎる」ということになる。

 最終章は、これまでの議論のとりまとめと将来の研究の方向性について記述した結論である。同書は、標準的なミクロ経済学など従来のアプローチと比較すると、生産よりも取引に、特に、そこに生じ得る「取引費用」を重視しているが、かといって、必ずしも従来のアプローチを否定しているわけではない。このことについての著者の見解が明示的に述べられる部分を、最後に引用する。

 分析というものが世界が認知される仕方に影響をあたえるものであり、それは、解明し、教示する力をもつだけでなく、判断を惑わせ、誤った方向に導く力をもつことは、基本的な事実である。また、もしA機構でなく、B機構が、興味深い諸現象をうみだしていると考えられるならば、知的にみて尊重すべき仕事は、B理論を構築することであるということについては、広く意見の一致がみられる。しかしながら、過去30年のあいだ、数理経済学の発展がとくに重要視されたことによって、A理論の構築が助長されたことが多かった。取引関連的な摩擦は、きちんとした定式化に容易になじまないため、この過程において比較的軽視されてきた。これは、経済理論を現在の水準まで精緻化したものとするために、過渡的な手段としては、必要なことであったのかもしれないが、そのために、ときとして、作為的なものとなるという犠牲が払われてきた。
 しかしながら、高度の理論は必然的に極度の抽象化を許されるものであるから、どこに心配しなければならないことがあろうか?理論家たちにとっては、「当面する問題との関連性」がどこにあるかという問題は、しばしば、あいまいであった。しかし、理論が摩擦のないシステムにコミットしてきたことは、応用的なタイプの研究も、摩擦に対して、かぎられた──あるいは選択的な──感受性しか示さないことを助長してきた。これは、この結果として公共政策上の処方が損なわれてきた程度において──私は実際このようなことがときどきあったと思うのであるが──、明らかに、不幸なことであった。
 私は、ここで、応用ミクロ経済学の諸問題にとりくむうえで、私が提唱している接近と他の方法とのあいだに生じる相違点をいくつか述べてみたい。私自身がそうであるように、折衷主義的であろうとする人間にとっては、一つの接近にだけ全面的にコミットする必要はない。むしろ、当面の問題の処理にもっとも適した接近を択ぶことが、かんじんなのである。モデルを問題に合わせることは必ずしも容易ではないが、一つのモデルにあらゆる問題を処理させることは、──最初に挙げたネルソンとクープマンスの述べている理由によって──さらに不満足なものでしかないと私は考える。

(了)