備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

竹森俊平『通貨「円」の謎』

通貨「円」の謎 (文春新書 923)

通貨「円」の謎 (文春新書 923)

 日本の「失われた10年」とよばれた長い不況は、他国にはみられない特殊な経験であった。では、なぜそのようなことが生じたのか、通常は働くはずの景気の「自動安定化装置」は、なぜ日本の場合にだけ働かなかったのか。著者はその理由を「価格シグナルが誤ったメッセージを送り続けたこと」に求めている。
 不況に陥ると、海外からの投資が逆転し、自国通貨安になるというのが通例である。このため輸出が増加し、需要の増加にともなって景気は好転する。このように、経済の「自動安定化装置」は、不況に陥った経済をもとに戻す働きをするのだが、近年の日本では、不況は逆に「超円高」をもたらすことが多く、その理由として常にあげられるのが、日本の投資家が海外の資産を国内に戻すという憶測である。事実、東日本大震災の後に生じた「超円高」の局面でも、日本の保険会社などが保険金の支払いに備え外貨資産を大量に売却し、円買い・ドル売りを進めるとの憶測がささやかれた。

 不況の後に自国通貨はどのような動きをするのか、という点を考える前に、本書では、為替レート決定の背後にある経常収支と資本収支についてのレヴューが行われる。危機発生前後の経常収支の変化をみると、日本については、他国の事例とパターンが異なっている。他国の事例では、危機発生前までは経常収支が悪化する傾向がみられるが、日本の場合は、もともと黒字であった経常収支が若干拡大した。これを経常収支の裏面である資本収支の側からみると、日本では、危機発生前に資本輸出が増加していたことになる。この理由について、著者は、日本では国内の株・不動産バブルによって生じた銀行の資産の膨張があまりに凄まじかったため、日本の銀行は、国内のバブルと資本輸出とを同時にファイナンスすることができたためだとする。
 つぎに、危機発生後の経常収支の変化をみると、他国の事例では経常収支は黒字化し、資本輸出が増加する。その理由としては、危機にともなう資本逃避の発生や、金融緩和政策にともなうキャリー・トレードの発生などが考えられる。また、資本輸出が増加すれば、自国通貨を売却し外国通貨を購入する動きが生じるので、為替レートは自国通貨安となる。しかし日本では、国内の金融逼迫に対応するため、海外の資産を取り崩して円に転換する動きが生じ、為替レートは逆に円高となる。
 なぜこのような違いが生じたのかを解釈するため、著者は、議論のための一つの前提と五つの仮定をおく。

前提「金融危機発生前後の経常収支と為替レートは国際資本取引によって決定される」
(A)投資家は近視眼的な行動をとる
(B)大国向け投資と小国向け投資で投資家は異なった判断をする
(C)国内投資家と外国人投資家の判断は異なる
(D)経常収支と為替レートは自国と外国の間の金利差による影響を受ける
(E)通貨安(高)は輸出の拡大(縮小)要因となる

 この前提によれば、経常収支の黒字化は資本輸出の増加の結果として生じるため、自国通貨安となる。これは、経常収支を(資本取引ではなく)貿易取引の関係から決定されると考える見方(すなわち、為替レートは経常収支に対して価格調整メカニズムの役割を果たすという、これまでこのブログでも頻繁に指摘してきた見方)とは、為替レートの方向性は全く逆となることを意味している。危機の前後においては、為替レートは価格調整メカニズムの役割を果たさず、事実、リーマン・ショック後は、貿易・サービス収支が急速に縮小する中にあって「超円高」が生じている。*1

 経済危機が「超円高」をもたらし、それが結果的に「失われた10年」という長期の不況へとつながっているとするならば、日本と他国の事例の違いの原因を探った上で、どのようにしてこの問題を乗り越えることができるのかを究明する必要があろう。著者はまず、各国の事例を三タイプのシナリオにパターン化する。

(1)資本輸入をする小国(小国のシナリオ)
(2)資本輸入をする大国(大国のシナリオ)
(3)資本輸出国

 いうまでもなく、日本はタイプ(1)にあてはまり、日本経済には、危機後に正常な価格シグナルが働くタイプ(2)や、基軸通貨国である米国が該当するタイプ(3)とは違うシナリオが働くことになる。危機が生じると、資本輸出国では、国内投資家が自国投資を優先する傾向を持つことから(仮定(C))、資本が国内に還流し自国通貨高となる。このため、自国通貨安による正常な価格シグナルを働かせるためには、より強力な金融緩和の発動が必要である。自由放任的な経済運営に頼ることなく強力な財政・金融政策を働かせることで、小国のシナリオのような状況を日本経済にもたらすことが必要となる。
 いいかえると、日本経済の正常化には円安(それにともなう輸出の拡大)が必要だということである。しかしこれは「純輸出」=黒字の拡大を意図するものではない。輸出の拡大は、同時並行的に輸入をも拡大させる。日本だけではなく、インフレ率が安定している米国等も金融緩和を進めることで、貿易取引の総量を拡大すればよい。

 以上、本書の大要を概観してみたが、日本経済の長期の停滞の背景に「価格シグナルの誤ったメッセージ」をあてはめる手並みには過去の著者の作品にも共通するような鮮やかさがあり、経済書であると同時に謎解きをするような楽しみを読者に与えてくれる。とはいえ、結果として導かれる処方箋はオーソドックスで、真新しさを感じさせるものではない。経済書としての本書の重要性は、自由放任的な経済運営が必ずしも完全雇用均衡に向けた価格調整メカニズムを働かすわけではないことを類書にはない形で示していることにあると思われる。市場経済が持つ「自動安定化装置」の機能は肯定しつつ、それが機能する条件として、財政・金融政策の必要性が指摘される。話が反市場経済学的な方向へ流れることを制御しつつ、必要な政策は何かを訴えることができている。

*1:一方、危機が生じる前の経済が比較的安定していた時期においては、為替レートは貿易・サービス収支の黒字化に遅れて生じており、為替レートは価格調整メカニズムの役割を果たすように推移している。