備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

J・D・ヴァンス『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

田舎の白人労働者階級(ヒルビリー)に出自を持つ著者が上流階層の生活が営めるようになるまでの物語であり、そこには、現代米国の政治情勢を形作るに至る白人労働者階級の意識、上流階層の生活習慣の中に潜む社会関係資本ハビトゥスの効果等、興味深い逸話や指摘が含まれている。また、社会学等の実証研究についても言及し、自身の経験や主観的なものの見方が、客観性のある視点から補強される。

祖父母との生活が始まる9章以前の内容は、ヒルビリーの将来について悲観的な思いを抱かせる内容で、問題の根源が「家族」の中にある以上、これを改善する社会政策は、いまのところ見いだされていないようでもある。

異なるルール

本書の中で特に興味を引くところは、11章「白人労働者がオバマを嫌う理由」と13章「裕福な人達は何を持っているのか?」である。

オバマ前大統領に関しては、イスラム教徒であるとか、外国生まれである等のフェイクが一部で信じられているが、著者によれば、ヒルビリーたちがオバマを嫌う理由は他にあるとし、つぎのように指摘する。

私の高校時代の同級生には、アイビー・リーグの大学に進学した者がひとりもいないことを思い出してほしい。オバマアイビー・リーグのふたつの大学を、優秀な成績で卒業した。聡明で、裕福で、口調はまるで法学の先生のようだ(実際にオバマは大学で合衆国憲法を教えていた)。
私が大人になるまでに尊敬してきた人たちと、オバマのあいだには、共通点がまったくない。ニュートラルでなまりのない美しいアクセントは聞き慣れないもので、完璧すぎる学歴は、恐怖すら感じさせる。大都会のシカゴに住み、現代のアメリカにおける能力主義は、自分のためにあるという自信をもとに、立身出世をはたしてきた。もちろんオバマの人生にも、私たちと同じような逆境は存在し、それを自ら乗り越えてきたのだろう。しかしそれは、私たちが彼を知るはるか前の話だ。
オバマ大統領が現れたのは、私が育った地域の住民の多くが、アメリカの能力主義は自分たちのためにあるのではないと思い始めたころだった。自分たちの生活がうまくいっていないことには誰もが気づいていた。死因が伏せられた十代の若者の死亡記事が、連日、新聞に掲載され(要するに薬物の過剰摂取が原因だった)、自分の娘は、無一文の怠け者と時間を無駄に過ごしている。バラク・オバマは、ミドルタウンの住民の心の奥底にある不安を刺激した。オバマはよい父親だが、私たちは違う。オバマはスーツを着て仕事をするが、私たちが着るのはオーバーオールだ(それも、運よく仕事にありつけたとしての話だ)。オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ。

また、上流階層では、仕事を探すのにもヒルビリーの世界とは異なるルールが働く。地方の州立大学にいる時には、給料の高い仕事を求めて数十の求人に応募しても、すべて断られたが、イエールのロースクールでは、裁判所で熱弁を振るう男たちから、10万ドルを超える年収を手渡されようとしている。上流階層では、会社から面接に呼んでもらうために履歴書を書いて応募したりはせず(このやり方では、ほぼ確実に失敗に終わる)、代わりに友人の友人、親類の大学時代の知り合い、大学の就職相談窓口などのネットワークを使う。

もちろん、経歴のよしあしや面接の出来不出来が、就職とは関係ないと言っているわけではない。どちらも大切だ。だが、経済学者が「社会関係資本」と呼ぶものには、計り知れない価値がある。これは学術用語だが、それが意味することはシンプルだ。社会関係資本とは、「自分が周囲の人や組織とのあいだに持つネットワークには、実際に経済的な価値がある」ことを意味する。このネットワークは、私たちを会うべき人に引き合わせてくれたり、価値ある情報やチャンスを与えてくれたりする。ネットワークがなければ、自分ひとりですべてをこなさなければならない。

社会関係資本とは、友人が知り合いを紹介してくれることや、誰かが昔の上司に履歴書を手渡してくれることだけをさすのではない。むしろ、周囲の友人や、同僚や、メンター(指導者)などから、どれほど多くのことを学べる環境に自分がいるかを測る指標だといえる。私は、選択肢に優先順位をつける方法を知らず、ほかによい選択肢があるかどうかもわからなかった。自分のネットワーク、とくに思いやりのある教授を通じて、それを学んだのである。

社会政策による解決は可能か?

ラージ・チェティら経済学者チームによる実証研究によれば、貧しい家庭に生まれた子どもが実力社会で成功する可能性は、期待していたよりずっと低い。欧州の多くの国は、米国よりも「アメリカン・ドリーム」を実現しやすく、米国では、地域ごとに、成功の可能性には偏りがある。地域的な偏りがある理由は、母子・父子家庭の割合と、ほかの地域との収入格差である。

一方で、ヒルビリーの世界では、祖父母やおじ、おば、そのほかの親族などが子どもに対して果たす役割は、極めて大きいにもかかわらず、州の法律が「家族」をどのように定義しているかによって、そこから引き離され、里子に出されてしまうこともある。このように、「この国の福祉制度は、ヒルビリー向けにはつくられていない」ということである。(著者は、祖父母との生活をきっかけに、いまの生活へと至る道筋を得ている。)

地域格差については、政策では解決できない問題もある。

子供のころ、私は、学校でいい成績をとるのは「女々しい」ことだと思っていた。
男らしさとは、強さや勇気や闘いを恐れない心だ。もう少し成長してからは、女の子にモテることという項目が、そこに加わった。勉強していい成績をとるなんて、「お嬢様」か「オカマ」のやることだ。
どこからそんな考えが出てきたのかはわからない。学校の成績にいつも厳しかった祖母からではないし、祖父からでもない。だが、周りの子どもが全員そう思っていたことは確かだった。私と同じような労働者階層出身の子供の学力が下がり続けているのは、「勉強は女々しい」という思い込みが原因だという研究結果も出ている。

校内暴力花盛りし頃の地方の公立校出身の自分には、この最後のくだりには、極めて腑に落ちるものがあった。