ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

教訓

 これまでの限られた職業経験の中で得た重要な教訓のうち、世の中であまり語られていないと感じるものを、メモ程度に残しておきたいと思います。なお、自分のことは「棚に上げて」書いているところが一部にあります。4・5番目は他人の受け売りです。

  • 『「事実」は《作られる》』を追加(03/26/2020)
  • 『《真実》は細部に宿る』を追加(03/28/2020)
  • 『《専門性》を磨く』に一部追記(04/08/2020)
  • 『《正しい》物事が常に正しいとは限らない』を追加(04/09/2020)



  • 常に《頭を働かせる》

 《頭を働かせる》ことは、職業生活に限らず重要なことですが、一見して簡単に思えることでも手元の情報だけで判断せず、周辺情報を可能な限り確認し充分に考えた上で判断すべきです。時には「了承を得る」ため、情報を取捨選択し提示した上で「判断を求める」人間もいないとは限りません。自分の場合、直前にその事実に気付き、(その点は良かったものの、一方で)制御し切れない「怒り」に襲われ、とんでもない「失敗」を犯す直前で踏み止まった、というような状況が、一度や二度はあったように思います。
 たとえ「信頼できる」(と少なくともそれまでは考えていた)相手であっても、常に懐疑心を失わず、対応するに当たっては、常に《頭を働かせる》必要があるように思います。

  • 面倒がらない

 一定の結論が出た後は、安心してしまい、結論に至った過程を記録に残すことは面倒に感じることがあります。そんな時でも面倒がらず記録に残し、結論を下すに至った証拠書類と併せ保存することは重要です。保存に当たっては、面倒がらず充分に「保険を掛け」、後日、自分が見たい時いつでもアクセスできる状態にします。
 「明日の自分」は「今日の自分」とは異なる人間です。後日、判断に至った理由を問われ、時には相手に誘導されるまま「そんな感じだったと思います」などと答えてしまうことも無いとは限りません。「誤った」結論の責任を自身に帰責されてしまうことだってあり得ます。
 いまは、《世の中がうまく回る》ことを大切に考える人間よりも、そうしたら《世の中がうまく回らなくなる》とわかっていてもそれを「誰か」に決定させ、(その責任をその「誰か」に押しつけ、)イメージ戦略的に自分の立場をよくすることを大切にする人間が優位に立つ時代です。

  • 《知人》を大切にする

 自身の職業とは異なる職業を持つ《知人》との関係を大切にすることには2つの意義があります。1つ目は、同じ職業を持つ人間関係の中で自然に身に付いたバイアスを常に意識化できる点です。2つ目は、同じ職業を持つ人間が組織の意向に縛られる中、誰かに味方になって欲しい時、話ができる点です。特に、その《知人》が弁護士等の資格を持つ場合、守秘義務があるので何でも話せ、中立的な立場からの意見を聞くことができます。
 先に《制御し切れない「怒り」に襲われ、とんでもない「失敗」を犯す直前で踏み止まった》ことについて触れましたが、《踏み止まる》ことができた一因に、《知人》との会話があります。人間は「怒り」に襲われる時、誰が味方で誰が敵か、「真の敵」は誰かを見失いがちです。「真の敵」は、こうした状況を目ざとく認識し、甘い声を掛けてきます。
 なお、ここで《友人》と書かず《知人》と書いたのは、《友人》の意見はバイアスを持つが《知人》の意見はバイアスを持たないからです。(無論、《友人》関係も重要です。)

  • 目の前の《困難を避けない》

 目の前に大きな壁がある時、それを避け当面可能な判断をしたくなるものです。それでよいと思います。ただし、その判断が「誤り」であり、いずれ大きな《困難》をもたらすことがわかっているのであれば、《避ける》わけにはいきません。(まあ、当然のことです。)
 とは言え、失敗することもあります。それでよいと思います。だいたい、自身にとって「もっと大切なこと」のためにいまの職業生活を送っているのであって、職業生活自体は単なる「手段」に過ぎません。職業生活上の大きな困難に直面しでも、自身にとって「もっと大切なこと」があれば、受けるストレスは相対的に小さくなります。失敗を責める「パワハラ」にあった際は、訴訟の手段を含め、冷静に「相手を叩きのめす」方法を考えましょう。(たいしたことではありません。)

  • 《専門性》を磨く

 世の中では、《専門性》(企業特殊的な技能とは異なる一般的な技能)があれば現在の職業に拘らずいつでも別の職業に就くことができるので《専門性》は大事だ、と語られます。しかし現実には、(たとえ資格はあっても)いつでも別の職業に就くことができる程の知識・技能を身に付けるのは簡単ではありません。《専門性》を「売り」にする人も時に見かけはしますが、現実にその人が左程の《専門性》を身に付けているかと考えれば、やや心許ない気もします。
 とは言え、左程の《専門性》は無いにしても、組織の中で「一定の専門性が一定の役に立つ」ことは事実であるように感じます。

 やや大雑把ですが、特定組織内の職業は、世の中の最先端に位置する《専門的》な職業と、《専門的》な職業が産み出す組織の競争力を支える《間接的》な職業に分けることができそうです。「いつでも別の職業に就くことができる」程の《専門性》は、前者の職業に就くことで得られる可能性が高まる一方、後者の職業では、組織の中で「一定の専門性が一定の役に立つ」程度の専門性が身につく、というのがせいぜいであるように思います。優れた能力を持つ若い人が職業を選択するに当たっては、こうした視点で組織と職業の関係をみてみることも重要であるように感じます。

  • 「事実」は《作られる》

 弁論主義の考え方によれば、一般の民事訴訟では、《真実》がどうであれ、法廷で主張されたことに基づき立証されたものだけが「事実」として認定されます。「正しい者」よりも「巧みな訴訟追行技術を持つ者」が勝つ世界です。同様のことは世の中全般においても言えることで、巧みな報道技術等によって広がった《物語》は、そう簡単に覆せるものではありません。斯くして「事実」は《作られる》ことになります。
 世の中の人が求めているのは、自分が聞きたいと望む《物語》なのであって、(小難しい)《真実》ではありません。

  • 《真実》は細部に宿る

 報道の、時には第一面で大々的に報道される「事実」が、実は《真実》ではない、ということは実際にあり得ます。特に、その《作られた》「事実」がとても「わかりやすく」、世の中の人がそう信じたいと望む《物語》である場合、(たとえ後で誤りだとわかっても)覆すことは容易でなく、むしろ訂正されず、そのまま「事実」として通用し続ける方が一般的であるように思います。
 このことを別の場面に適用すると、誤った「事実」の報道が誰かの意図による場合、世の中の人は、その誰かの意図に応じ、容易に「動員」されてしまう、ということでもあります。
 でもこんな経験をしたことはないでしょうか。ネット掲示板等のゴミのような無駄に多い情報の中に、それ等とは一見して異なる「ひかりを放つ」書き込みがあり、後にそれが《真実》であると知る、といったことが。これは今時、大手マスコミの報道の中にも当てはまるように思います。最近では、面倒がって、ついついニュースのリードだけを読み満足してしまう方も多いかもしれませんが、《真実》は意外にも、記事の細部に宿るように思います。

  • 《正しい》物事が常に正しいとは限らない

 世の中の予測可能性が大きく低下する中、それまで《正しい》とされてきた物事が、唐突に「不正」と判断されてしまうことは、当たり前のように感じられます。「黒」が「白」になることは、まあ、以前もあったかもしれませんが、近年は「白」が「黒」にされてしまうことも珍しくはないようです。「明日の自分」は「今日の自分」とは異なる人間である以上、唐突に「不正」を責められると、相手に誘導されるまま「自白」を引き出されることにもなりかねません。他人のみならず、自分をも説得できる抗弁の材料を常に保持しておくことは極めて重要です。
 《正しい》ことが常にそうとは限らないと、人間は、判断を避けるようになります。「誰も何も決められない」というわけです。結果、判断は「現場」で下さざるを得なくなりますが、その際の「抗弁の材料」が重要になります。常にセーフハーバーを意識し、物事を前に進めていく必要があります。

(思いついたら追加予定)