ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎『政治の理論 リベラルな共和主義のために』

政治の理論 (中公叢書)

政治の理論 (中公叢書)

 本書では「「政治」理解の組み替え」を目指す、と著者は本書の中段において整理する。我々の「政治」理解は主権国家抜きには語れないが、実は主権国家による営為であっても必ずしも「政治」とはいえないものがあり、民間の市民社会の営為であっても「政治」と呼び得るものがある。教科書的、政党的な政治理論はホッブズ、ロックの社会契約論を起点とするが、著者はアレントの「社会」概念やフーコーコレージュ・ド・フランス講義を参照し、これを導きの糸としつつ、政治、統治、あるいは自由といった概念までも、改めて詳細に検討する。
 アレントは、政治の場としての公的領域と対比的な私的領域について、近代リベラリズムの論者(上記社会契約論を起点としカント主義者(ロールズ等)や功利主義者へと至る)とは異なる考え方をする。近代リベラリズムの論者にとって公的領域とは(優先されるべき目的である)私的利益を実現するため最低限必要な社会的環境であり、これを共同で支えるために政治は成り立つが、アレントにとっては先ず市民の私的自立があり、市民が自発的に参加する事業として公的領域における政治がある。このような政治理解は、古代の共和主義を準拠枠とするものとみなせる。アレントによれば、市民が私的に所有する財産(「元物」)は市場取引の対象ではなく、生産された「果実」としての財・サービスが取引の対象となる。しかし近代の市場経済はあらゆる財産を取引の対象とするもので、公私の区別を曖昧にし、公的な政治と私生活をともに衰退させる。こうした場に出現するのが「社会」である。
 一方のフーコーには、国家による法的な統制モデルによる権力・政治理解から、日常生活の至るところに偏在する「生権力」としての権力・政治理解への転換があるが、伝統的な政治領域に無関心だったわけではなく、上記コレージュ・ド・フランス講義は〈統治〉およびこれを導く合理性である〈統治理性〉を主題とする。この〈統治〉概念は「政治」よりも社会経済政策を担う「行政」のことで、王権の家政として国家を経営する絶対主義からの流れに近い。ロックにおいては公的領域たる市民社会と私的領域たる家政は区別され、子供を一人前の権利主体と訓練・規律づけることは家政に属するが、貧民の子弟については強制的な公共政策として無償の職業訓練が提唱される。ただしロックの「統治」とフーコーの〈統治〉とは異なるもので、後者はロックにおいては家政に属するものとなる。
 フーコーは、(人の性質をそのままに)暴力的強制を伴いつつ言語的コミュニケーションによって人の行動を制約する「法的メカニズム」、人の性質を調教し変えていくことで積極的にある方向へと導く「規律メカニズム」とともに、(暴力的強制も言語的コミュニケーションも介さず)人の周囲の環境を間接的にコントロールすることで人の行動を統制し誘導する「安全メカニズム」について論じ、それが前面に出た〈統治〉をリベラリズムと呼ぶ。またリベラルな〈統治〉の対象は(貧民に限らず)市民にも及ぶ。上述したアレントの「社会」概念は、フーコーが〈統治〉の対象として見出した「市民社会」と重なる。著者は、この〈統治〉の対象を(法の支配する)所有権の安定、取引の自由のみならず(裁量的政策の典型である)マクロ経済政策や金融政策の領域にまで広げて理解する。

リベラルな共和主義

 公的であること、「公共性」とはどのようなものであるか。近代の市場取引は、具体的な他者とのコミュニケーションを通じた取引(すなわち「政治」的なもの)ではなく、匿名的な市場の「見えざる手」に拘束された取引である。しかし古代のギリシア・ローマにおいては、近代の市場取引に当たるものも一種の「政治」であった、とする見方がある。こうした見方をとることで、「社交」と択ぶところがないかのように読めるアレントの「政治」論を、近代の「経済」に相当するものを取り込んだ「政治」のイメージに修正することができる。
 市場取引を「政治」と感じることができない人々にとって残る「政治」は大域的な政治、都市、国家レベルの公事となる。古典的な意味での「政治」に属する営為は、脱政治化されて今日的な意味での「経済」、あるいはアレント的な意味での「社会」となる。一方、古典的には「政治」とはみなされなかった行政、公共政策、公共事業が「政治」としてみなされる。
 市場取引がいかにして発生し発展するか、について、ロックからスミスにつながる「剰余モデル」による理解には説得力の弱い一面があり、一方で債権・債務関係を起点とする「欠損モデル」は、交換発生の時間的前後関係が明確である。この場合、格差、不平等は取引の開始前から存在し、かつ取引を開始する駆動因そのものとなる。また、債権・債務関係では、不確実性に伴う貸し手の担保要求や強制執行に訴える誘惑が大きくなるが、これを抑え相互の信義誠実を信頼し取引を進めるため、「政治」の場が必要となる。(同様のロジックは雇用・請負関係にもある程度当てはまる。)
 このあたりから本書の目指す「リベラルな共和主義」、無産者であっても「まとまった財産を借り入れる」あるいは(一定程度食いつなげる財産を保有しつつ)「報酬と引き換えに仕事を請け負う」ことで「すべての人を有産者=市民とする」ことへの方向性が漸く明確になる。財産もなければ労働もできない人への生活保障、ベーシックインカム等は「必要なフローの供給」であるのに対し、「リベラルな共和主義」、その下での福祉国家論においては、その眼目は(単なるフローの共有ではなく)ストック形成の支援となる。なおこうした検討の、より現実と近いところでの検討は、かつて取り上げた岡澤 憲芙、連合総研編『福祉ガバナンス宣言』でも行われているように思われる*1

福祉ガバナンス宣言―市場と国家を超えて

福祉ガバナンス宣言―市場と国家を超えて

  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本

そのように読むと、本書における「リベラルな共和主義」という戦略自体の新規性はやや弱まる。

労働の商品化

 本書の第7章は、雇用関係に関し古代の奴隷制からの流れ、「労働力」と「人的資本」概念の違い等を踏まえ検討されており、本エントリーの筆者としては最も興味を持って読んだ。雇用関係は(債権・債務関係と同様)不完備契約であり、また雇用関係は(奴隷制がそうであったように)本来家政レベルの私的支配関係であって、これを契約関係に組み直し「公共化」した仕組みである。よってパッケージ化されルーティン化された(「見えざる手」による)市場取引への移行は、その本来態への回帰であるといえる。このような「労働の商品化」の危険に対し、雇用の流動化、労働市場の自由化ではうまく対応することはできず、団体交渉や労使協議といった「産業民主主義」の仕組みが必須となる。
 それでもなお雇用の流動化に固執するなら、労働者側に(労働力とは異なる意味での)人的資本など一定の財産が確保されることが必要になる。この場合、消費貸借等の金融を前面的に禁圧すれば、無産者の蓄財、有産化への重要な経路が遮断されてしまうため、金融市場全体をそれほど歪めず窒息させない程度に規制を張り巡らすことになる。
 労働市場の自由化に固執しつつ脱「労働の商品化」する実践的な仕組みに関しては、本書の中に具体的な記述を見つけることはできなかったが、著者自身は恐らく金融NPOマイクロファイナンス的な仕組みを視野に入れているのではないかと思われる。一方「産業民主主義」、なかんずく労働組合の役割に対しては、その重要性を否定しない一方さほどの期待は置いていない、ような印象がある。(アレントに準じれば、社会問題は「政治」の領分ではなく、社会的弱者は〈統治〉の対象であり、労働組合は(行政による)社会政策の下請機関となる。)

『国家はなぜ衰退するのか』

 リベラリズムはそもそもが〈統治〉の仕組みであるのに対し、共和主義とデモクラシーは違う。共和主義とデモクラシーは「政治」の論理であるが、共和主義とデモクラシーは完全には重ならない。「リベラルな共和主義」は、その重なりの中にある。
 実証的政治理論の立場からリベラルデモクラシーをサポートする議論にアセモグル=ジョンソン=ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』があり、これによれば、「長期的な経済発展の成否を左右する最も重要なファクターは、地理的・生態学的環境要因でも、社会学的文化要因でも、いわんや人々の間の生物学的・遺伝的差異でもなく、政治経済制度」である。(中国に代表される)「デモクラシーなきリベラリズム」や恐らくは「リベラルではないデモクラシー」も「長期的には不安定」とされる。ただし、その「長期」がどの程度かは問題となる。
 最後には、リベラルデモクラシーの困難さ、また「リベラルな共和主義」に至っては「未だそれが「ありうる」ものなのかどうかも定かではない」と述べられる。十分に自由な市場経済も、機能的な民主政も、教養ある有産者によってしか担い得ない。一方そうではない者についても、政治から排除し自由な市場において受動的な商品になってもらう、わけではなく、長期的に財産を形成し万人を有産市民とする。「リベラルな共和主義」としては、先ずはこの方向へとコミットしたい。しかし財産は無形化し、実物ではない金融資産、人的資本に移行する中で、確固とした公的世界、私有財産をいかに構築し維持するか—

 —著者とは別の文脈で考えを巡らしてみると、経済が長期に停滞し、人口は減少するコミュニティにおいては、特に若年層は有形の財産よりも無形の財産を志向するのではないか。有形の財産、特に土地は人間を「その地に縛る」ものである。一方、流動的な財産、特に人的資本(教育投資)は、自分の居場所を自由に求める可能性を高めてくれる。過疎化が進む(同質性の高い)地方のコミュニティにおいては、外から異質な人材を引き込み公的な「政治」の場を活性化することに「最後の希望」を託せる可能性がある一方、個々の成員レベルでは、そこに「縛られる」ことへの不自由さを感じる者も多いだろう。こうした戦略は、本書のあとがきにいう「逃げる」、exitの戦略に当たる。
 (人的資本を含む)無形化する財産の構築物としての脆弱性についても、やや留保を持って考えている。上記のようなコミュニティでは、土地を含む有形の資産は「負の資産」となりつつある。最近のコロナ禍でテレワークによる場所を選ばない働き方が進む中、地方生活の価値を見直す動きも進んでいるが、(子弟の教育に直面する)一定年齢以上の世代では引き続き都心に住むことの価値は変わらない。こうした動きも所詮は「歴史の繰り返し」でしかなく、一時的なブームに終わるだろう。
 このように身も蓋もなく考えを巡らすと、将来の見通しは暗いものになり、「リベラルな共和主義」という戦略に対するリアリティもすっかり失われるわけである。小さな「共和政」は、いずれより大きな〈統治〉の仕組みに救いを求めざるを得なくなる、のが一般的な姿なのではないか— 一方こうした考えは、上述に引用した過去エントリーにおいて「定常型社会」を否定的に捉えた時の文脈とは正反対のようにも見えるものであり、総じて年齢や気分に左右された一つの見方に過ぎない、もののようにも思える。