備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

労働分配率の上昇要因と賃金が抑制された理由

(前エントリー)

  • 一人当たり名目賃金はなぜ力強さにかけるのか?

traindusoir.hatenablog.jp

 前エントリーでは、足許、物価(GDPデフレーター)が停滞し労働生産性も伸びないため、賃金(一人当たり名目雇用者報酬)の伸びには力強さが欠けており、企業にとって労働コストは相対的に低く、生産要素間の代替効果で雇用は伸び労働分配率は上昇している可能性を指摘した。
 本稿では、先ず、近年の労働分配率の傾向を確認する。また労働分配率は、一人当たり名目雇用者報酬と就業者数、(分母として)GDPデフレーターと実質GDPに分解できるため、労働分配率の前年比(近似値としての対数階差)に対するこれらの寄与度を確認する。
 つぎに就業者数の前年比に対する労働力率の影響度を確認し、性・年齢階級別の労働力率(前年差)に対する寄与度をみることとする。結論としては、労働力率の上昇は見かけ以上に大きく、性・年齢階級別にみた場合、労働力率の上昇に最も貢献したのは高齢者と女性であることがわかった。
 最後に、労働生産性が高まることで賃金も増加する好循環を得る上で、労働市場のタイト化が必須であることを指摘する。

労働分配率の前年比と寄与度

 前エントリーでは、賃金(一人当たり名目雇用者報酬)の前年比に対する寄与度として労働分配率の影響を確認したが、そこでも指摘したとおり、実際の因果関係としては、賃金が増加することで労働分配率は上昇するものと考えられる。 t期の労働分配率  ldst_tは、賃金  pw_t、就業者数  L_tGDPデフレーター \bar{P}_t、実質GDP   GDP_tを構成要素とし、以下のように分解される。

 
\begin{align}
ldst_t = \frac{pw_t \cdot L_t}{\bar{P}_t \cdot GDP_t}
\end{align}

今回の分析では、上式を基に労働分配率の対数階差をとり、対数階差に対する各構成要素の寄与度をみる。なお、対数関数は正数を定義域とする単調増加関数であり、その階差は以下の近似式から「前年比の近似値」として扱える。

 
\begin{align*}
\frac{x_t - x_{t-1}}{x_{t-1}} \fallingdotseq \log_e x_t - \log_e x_{t-1}
\end{align*}

労働分配率の対数階差をとると、(1)式より下式が導かれ、下式の右辺の項は、それぞれ賃金、就業者数、GDPデフレーター、実質GDPの寄与度とみなすことができる*1

 
\begin{align*}
\log_e ldst_t - \log_e ldst_{t-1} &= \log_e pw_t - \log_e pw_{t-1} \\
                                  &+ \log_e L_t - \log_e L_{t-1} \\
                                  &- (\log_e \bar{P}_t - \log_e \bar{P}_{t-1}) \\
                                  &- (\log_e GDP_t - \log_e GDP_{t-1})
\end{align*}

寄与度をみる前に、先ずは労働分配率の水準の推移を確認する。

2011年基準による最新のSNA統計は1994年以降となるため、それ以前の数値は1995年基準によるもので単純比較はできない。1994年以降でみると、前エントリーでユニットレーバーコスト(ULC)の調整期とした期間は労働分配率の低下局面でもあり、安定期に入ると労働分配率は上昇を始める。これが2011年頃から再び低下し始め、2015年を底にその後は上昇し、足元では(1994年以降でみて)最も高くなる。

 つぎに、対数階差による寄与度を確認する。

労働分配率の傾向に関し一般に指摘されるのは、

  • 景気後退局面では、賃金が下方硬直的である一方、実質GDPが抑制されるため、労働分配率は上昇する
  • 景気拡張局面では、賃金よりも実質GDPの増加率が大きく、労働分配率は低下する

というものである。しかし本稿の分析で労働分配率が明確な低下傾向を示すのは、①前エントリーで定義した調整期と、②政権交代を挟む2011年から2015年にかけての時期である。ただし労働分配率低下の理由は異なっており、①では賃金・雇用の水準調整が労働分配率の低下をもたらしている一方、②では物価(GDPデフレーター)ないし実質GDPが伸びたことが労働分配率低下の理由となっており、デフレ脱却と景気拡張による労働分配率の低下であると解釈できる。加えて調整期から安定期にかけてのデフレ期は、物価の低下が労働分配率を下支えしている。

 またデフレ期に入る前の1990年代前半と、デフレから既に脱却した2016年以降は、賃金・雇用の増加によって労働分配率は上昇しているが、後者は(前者と比較し)賃金の寄与度より雇用の寄与度が大きい点が特徴であり、加えて実質GDPの寄与度(マイナス要因)は小さい。このことは、先に指摘した「生産要素間の代替効果による雇用の増加」との見方とも整合的であり、雇用の増加はあくまで「生産要素間の代替効果」であるため、実質GDPの伸びは小さく、労働生産性は抑制されたままとなる*2

雇用増加の背景

 足許、労働分配率上昇の主因となった雇用(就業者数)の増加はどのように生じたのか。人口減少下にある中、雇用の増加がいかにして生じたのか、その背景を探ることとする。

  t期の就業者数  E_tは、15歳以上人口  P_t、労働の意思と能力を持つ者の合計である労働力人口  F_t、完全失業者  U_tを用いて、以下のように表される。

 
\begin{align*}
E_t &= F_t - U_t \\
    &= P_t \cdot \frac{F_t}{P_t} \cdot (1 - \frac{U_t}{F_t}) \\
    &= P_t \cdot f_t \cdot (1 - u_t)
\end{align*}

  f_tは15歳以上人口に占める労働力人口の比率、すなわち労働力率であり、  u_t労働力人口に占める完全失業者の比率、すなわち完全失業率である。上式をもとに、労働分配率について行なったのと同様の考え方で、就業者数の前年比(近似値としての対数階差)に対する人口、労働力率、(1-完全失業率)の寄与度を分析した。

 就業者数は2012年を底に増加を続けるが、人口減少下にある中、就業者数増加の主たる要因となっているのが労働力率の上昇である。労働力率は、デフレ期はマイナス傾向が続き、就業意欲の喪失が継続的に続いたことがうかがえる一方、デフレからの脱却後は、大幅に上昇し就業意欲を高めている。なお、(1-完全失業率)の寄与度は、概ね景気循環に応じて変動している。

 労働力率の上昇は、性・年齢階級別にみれば、表面的な数値に現れるそれよりも大きなものであることが以下のように説明できる。就業者数の近年の底である2012年と足許2019年の性・年齢階級別の就業率は、つぎのようになる。

労働力率は、2012年から2019年まで3.0ポイント上昇している。人口は概ね1億1千万人であり、この間、労働力人口は約330万人増加したことになる。この労働力率の上昇分について、性・年齢階級別のインデックスを i、性・年齢階級別の人口構成比を p_t^i (= \frac{P_t^i}{P_t})として以下のように表すことができる。


\begin{align*}
f_t - f_{t-1} &= \sum_i p_{t-1}^i \cdot (f_t^i - f_{t-1}^i) \\
              &+ \sum_i (f_{t-1}^i - f_{t-1}) \cdot (p_t^i - p_{t-1}^i) \\
              &+ \sum_i (f_t^i - f_{t-1}^i) \cdot (p_t^i - p_{t-1}^i)
\end{align*}

右辺第1項は、(純粋に)性・年齢階級別の労働力率が上昇したことによる要因である。この他、例えば若年層や高齢者層など、そもそも労働力率の構成比が低い属性の人口構成比が上昇(低下)すれば、労働力率は低下(上昇)する。この人口構成比の変化による寄与度を示すのが右辺第2項である。右辺第4項は交差項による要因である。

 結果はつぎのようになる。

人口構成比の寄与度は2.4ポイントのマイナスで、性・年齢階級別労働力率の寄与度は5.6ポイントのプラスである。すなわち、労働力率は3.0ポイント上昇したが、労働力率の低い65歳以上層などの人口構成が高まったことで、労働力率は引下げ圧力を受けており、実際には5.6ポイント程度の上昇であったと考えられる。

 なお、性・年齢階級別にみた場合、労働力率の上昇に最も貢献したのは高齢者と女性であったことが寄与度からわかる。この間、企業の労働需要に応じて雇用が増えても賃金は抑制されたが、その背景には、高齢者と女性の就業意欲が高まり、これらの層からの労働供給が促進されたことで労働市場はタイト化しなかったためであると考えられる。

まとめ

 前エントリーでは、賃金(一人当たり名目雇用者報酬)の伸びに力強さが欠けた背景について考察したが、まとめると、

  • 貨幣的な側面からみれば、物価と賃金が共に抑制されており、経済主体の期待に働きかける金融政策の効果は、期待どおりの成果を上げることができなかったといえる。特に、「官製春闘」とよばれたこの間の賃上げにあって、「2%のベースアップ」という目標達成は実現に程遠いものであった*3
  • 実物的な側面からみれば、雇用は増加したが、労働生産性は増加しておらず、賃金の抑制にサポートされた「生産要素間の代替効果」による労働需要であった可能性がある。
  • また、その背景には高齢者や女性の就業意欲が高まったため労働供給が増え、労働市場はタイト化しなかったことがあり、よって賃金は抑制され、企業の生産性向上意欲を引下げた可能性がある。

ということになる。

 なお、高齢者の労働力率の高まりに関しては、「2013年度より施行された、65歳までの雇用機会の確保を義務化する高齢者雇用安定法の影響が大きかった」との指摘もある*4。この場合、企業の労働需要はもともと大きなものではなく、制度への対応という消極的な理由で高齢者の雇用を増やし、結果的に労働生産性をも抑制させたことになる。

 また、この間、短時間労働者の構成比が高まり平均労働時間数が減少したため、時間当たりの賃金は(就業者一人当たりの賃金よりも)伸びが大きくなる。すなわち労働の「稼働率」を加味すれば、賃金の抑制傾向は緩和され、むしろ増減率はしだいに大きくなる。ただし、2019年の総実労働時間数の減少幅は異様に大きく、判断にはやや留保を要する*5

いずれにしても、労働分配率の上昇に依存することなく、労働生産性が高まることで賃金も高まるという好循環が望むべき姿である。生産性を高めるインセンティブを企業に付与する上では、労働市場のタイト化は必須といえる。また、労働生産性が高まり市場がタイト化すれば、賃金増加にもドライブが掛かる。そうした姿を実現するまで、現下の情勢はまだ道半ばである。

*1:実際の計算では、両辺にそれぞれ100を乗じ、パーセント表記の近似値としてみる。

*2:ただし(就業者一人当たりではなく)労働時間当たりの賃金とした場合、1990年代前半期ほどではないものの、賃金の寄与度は就業者数 \times労働時間を意味する労働投入量の寄与度よりも大きくなる。

*3:春闘賃上げ率」として一般に知られている数値にはベースアップ分のほか定期昇給分を含むが、後者については、仮に賃金等級別労働者構成に変化がなければ、平均賃金を引上げる効果を持たない(当該率が前年よりも低ければ逆にマイナスに作用)。

*4:https://genda-radio.com/page/5

*5:労働時間に限らず、2019年の『毎月勤労統計』の結果には、サンプルの入れ替えによると思われる変動がみられる。