備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

適応的期待によるフィリップスカーブの妥当性

 KaggleのNotebookにおいて、物価水準が安定した長期均衡状態における完全失業率である「インフレを加速させない失業率」(NAIRU)を推定した。

※ 可変NAIRUの収束性が高まることから、時系列データを四半期に改めました。推計結果に大きな違いは生じません。(10/22/2020)

www.kaggle.com

推定は、以下に示す非線型の期待修正フィリップスカーブによった。モデルの期待インフレ率は、適応的期待(過去のインフレ率)とした。
 
\begin{align*}
\pi_t = \sum_{i=1}^N \alpha_i \cdot \pi_{t-i} + \gamma \cdot \frac{u_t - u^*}{u_t} + \sum_{i=0}^N \beta_i \cdot ps_{t-i} \hspace{15pt} (\sum_{i=1}^N \alpha_i \fallingdotseq 1)
\end{align*}

ただし、 \pi_t  t期のインフレ率(消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の増減率)、  u_t  t期の完全失業率  u^*はNAIRU、  ps_t  t期の価格ショック(輸入物価指数の国内企業物価指数に対する比)である。

 結果の詳細はリンク先のNotebookを参照されたいが、結果は、つぎのようにまとめられる。

  • 推計期間の1980年~2020年においてNAIRUは変化しないと仮定した推定値である固定NAIRUの値は、概ね3.70%。
  • 推計期間においてNAIRUは確率過程(ランダムウォーク)に従い変動すると仮定した推定値である可変NAIRUの値は、概ね3〜4%程度で推計期間中に変動*1

しかしながら完全失業率は1980年頃や1990年代初頭には2%程度まで低下しており、固定NAIRUの推計値は、完全雇用が達成された状態における失業率という自然失業率の定義からは、かけ離れた高い水準となる。可変NAIRUについても、期首(無情報事前分布から推定)において実態からかけ離れた高い水準となるほか、足許の2020年は3%を下回るものの現実の完全失業率より高くなる。

 このように推定値は必ずしも現実のデータに適合しないが、その理由として、つぎの点が考えられる*2

  • リンク先のNotebookにも指摘したが、期待修正フィリップスカーブのモデル選択には恣意性がある。本稿では、インフレ率と完全失業率が反比例となる非線形の期待修正フィリップスカーブを用いているが、現実のデータは、完全失業率が2%台前半のところでカーブの曲率がより大きい可能性を示している。このようなモデルの不適合性が推定値を歪めた可能性がある。
  • 固定NAIRUについては、「推計期間に変化しない」という仮定が強すぎる可能性がある。可変NAIRUでは、一部のパラメーターが適切に収束していない。
  • 「1980年代のインフレ率の急速な低下は、金融政策の転換により長期インフレ期待が変化したことに伴うもの」で、「フィリップスカーブはごくわずかにしかフラット化していない」とする米国のデータによる分析がある。この場合、期待修正フィリップスカーブにおいて、適応的期待にもとづく期待インフレ率を用いることは適当ではない。

www.nikkei.com

実際、推定に用いたデータをもとに日本のフィリップスカーブをみると、リーマンショック後の2010年以降、完全失業率が低下しだいに低下する中インフレ率は緩やかな上下を繰り返し、長期的にみれば、ほぼ水平となる。

 一方、賃金と物価には一定の相関性があることから、この仮説に従えば、完全失業率が低下しても賃金は上昇しないことになる。

 完全失業率が低下する中、日本の賃金が上昇しなかったのは、09/25/2020付けエントリーにも書いたとおり、高齢者や女性の就業意欲が高まったため労働供給が増え、労働市場がタイト化しなかったためである*3労働市場がタイト化すれば、インフレ率も上昇した可能性はあるのではないか。
traindusoir.hatenablog.jp

 現在、機械学習の活用等が一般化する中、SNSの投稿数やPOSデータ、衛星写真など、公的統計等とは異なるオルタナティブデータの活用が進んでいる。日本のフィリップスカーブや長期インフレ期待の影響について同様の分析を行うためには、こうしたデータを縦横に活用することで擬似的なパネルデータを生成する等、新たな分析手法を取り入れることが必要である。また分析手法が変われば、新しい理論が生まれる可能性もある。上に引用した記事は東京大学における講演をもとにしたものであるが、講演の資料には、分析にあたって州レベルのインフレーション指数を遡及して作成したことが記されている。

 記事の最後では、つぎのように締められている*4

 高すぎる(または低すぎる)インフレに対して、政策当局は短期的な政策に頼るのではなく、長期インフレ期待を変えることをめざすべきだ。それがいかに困難でも取り組まなければならない。


(追記)
 上述の日経記事および東大講演に関するワーキングペーパーが公表されたことについて、himaginary's diaryで紹介されている。

himaginary.hatenablog.com

*1:推定結果に複数の警告メッセージがある。

*2:この他、推定方法の全体にわたって改善すべき点はあり得る。

*3:専門家の中には、その要因を、企業レベルの賃金交渉において「賃金の上方硬直性」があったため、とする指摘もある。

*4:一方、日本の金融政策の関係者が著した本には、「30年にわたる経済の停滞と、それに対して的確な対処が出来なかった一つの理由は、日本経済の急速な構造変化を経済統計が的確に捉えていなかったことだ」などと記されており、言い訳じみている。