備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

 2021年刊。原題は”The Tyranny of Merit What’s Become of the Common Good?”。本書に語られるのは、米国のメリトクラシー、学歴偏重主義の問題である。これは日本にもある程度当てはまる話だが、米国では、アイビーリーグ等の名門大学に入学する学生の所得階層は、それらの大学が気前の良い学費補助を行う中でも高所得層に大きく偏る。このことは、《名門大学に入学できたのは、高所得家庭に産まれたという幸運によるものだ》ということの証左とみることができる一方、《自分の成功は自分の手柄、自分の努力の成果、自分が勝ち取った何かである》との信念に魅力を感じる学生はますます増えている。こうした信念は「功績の横暴」を生む。すなわち自分たちが巨額の報酬を受け取ることを当然とみなし、《低学歴で低所得層であるのは彼らの落ち度によるものだ》とする「驕り」へとつながる。
 また高まる学歴偏重主義は、イギリスの社会学マイケル・ヤングがその著書”The Rise of Meritocracy”の中で指摘したように、勝者の中には驕りを、敗者の中には屈辱を育み、社会的軋轢を招く。このことは近年の英国のブレグジット、米国のトランプ現象の主たる要因でもあり、大きな社会的分断を生み出している。

 本書の内容からは離れるが、日本についても同様のことは指摘できる。生まれつきの容姿、能力、家庭環境で人生が大きく左右されるとの認識から、ネットを中心に「親ガチャ」という言葉が人口に膾炙した。自身の恵まれた環境を隠し、名門大学に入学できたことを自らの手柄のように主張する向きが「炎上」を引き起こすこともある。こうした社会の雰囲気が生み出す対立の間には、既に「超えられない壁」があり、その分断は、一面としては(かつての共産主義が夢見たように)国家間の対立をも超える「階級」内の同調を引き起こすのではないか、と感じる程である。
 また同時に、通常の一般選抜を経ず家柄等により予め入学が決められることについて、厳しい入試の渦中にある者の忌避感は極めて強い。こうした忌避感が全国的に生じれば、古い伝統をも破壊する威力を持ち得るのではないか、とも感じる。

「くじ引き」による選抜

 メリット制による選抜は、選から漏れた者に「いら立たしい判定を暗示」し、選ばれた者にも苦闘により受ける傷を、また大学にも選別という使命に力を使い果たし教育という使命から乖離するリスクをもたらす。第6章で、著者は、つぎのように提案する。

 そこで、こんな代案を考えてみよう。毎年、ハーバード大学スタンフォード大学では、およそ2,000人の定員に対して4万人を超える高校生の出願がある。入試担当者の話によると、出願者の大多数が、ハーバード大学スタンフォード大学での勉強に適格で、問題なくやっていけるという。(中略)すでに1960年には、出願者はそれほど膨大ではなかったものの、イェール大学入試委員を長年務めたある人物がこんなことを漏らしているという。「ときどき、やりきれない気分になります。何千人分[の願書]を全部……階段の上からばらまいて、手当たり次第に1,000人を選んでも、委員会で話し合って選んだのと遜色ない学年ができあがるでしょうから」
 私の提案は、この意見を真剣に受けとめるものだ。4万人の出願者のうち、ハーバード大学スタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資格がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは3万人、あるいは2万5,000人か2万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適格な出願者の書類を階段の上からばらまき、その中から2,000人を選んで、それで決まりということにする。[pp.266 - 267]

 本書から離れ、翻って日本の大学入試を考えると、例えば東大では、共通テスト110点換算+二次試験440点の計550点を、小数点以下数桁までの基準で厳格に合否判定される。2回テストを行えば合格者は大幅に入れ替わるとも言われる。その意味では、日本の大学入試には「くじ引き」的な要素が含まれており、時の運で合格する者もいる。同時に、入試制度に適合し常に高得点を取る者は的確に選抜され、適合できない者は除外される。入試の形態や内容に関する議論はあり得るとしても、現在の日本の大学入試改革の方向性は、サンデル的な見方からすれば、時代に逆行するもののように思える。
 一方、近年、東大など名門大学の学生を過度に賛美する風潮があるが、こうした風潮は、日本の入試制度が持つ「くじ引き」的要素への認知度の低さを示している。

 著者は最後に、学歴偏重主義に破壊された労働の尊厳や社会の絆を回復するため、機会の平等を超え、また結果の平等とも異なる、「広い意味での条件の平等」に、「社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議すること」によって到達することを唱える。また英国の経済史家・社会批評家R・H・トーニーの言葉を借り、個人が新たな地位に自由に出世できるだけでなく、出世しようがしまいが、尊厳と文化のある生活を送ることができることが必要だとする。
 このことは、共通善(アリストテレス)に重きを置く著者の従来からの立場に依拠しているが、解説にもある通り、本書の議論だけでは曖昧であり不十分である。上述のように「超えられない壁」があり、古い伝統をも破壊するエネルギーが満ちた中にあっては、社会の中に、熟議を可能とする基盤すら見出し難くなってしまう可能性はないだろうか。

関連エントリー
traindusoir.hatenablog.jp