- 作者: 田中秀臣
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2006/08/17
- メディア: 新書
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- 大竹文雄は長期不況が所得格差の悪化をもたらしたが、労働市場の構造問題が不況の進化に決定的な役割を持っていると考えている。これは、不況の真因をあまりに「賃金の下方硬直性」に依存した議論。日本の不況がこれほど長く続いたのは、デフレ期待が頑固に定着したためであり、(その結果生じる)金融市場の不調整が労働市場の下方硬直性と衝突することで失業を高めてしまう。よって、労働市場の規制改革を行っても、不況対策としては的外れ。
第2章 小泉政権の経済政策を振り返る
- 「民間に出来るものは民間に」という郵政民営化の基本方針は正しいが、今回の郵政民営化では、財政再建、そのための財政投融資制度改革や無駄な特殊法人の淘汰、を目的に「公的部門に流れていた資金を民間部門に流」すことを意図した(資金循環の歪み論)。しかし、2000年の財投融資改革以降、郵貯の資産運用は、国債を中心に市場原理に親和的に行われている。政府は、民営化本来の目的(組織の非効率性の改善)を追求するよりも、民営化主体の資産選択行動を政府の意図通りに、市場化の中で実行させようという錯乱した態度を持つ。
- スティグリッツは、IMFが緊縮財政、民営化、市場の自由化という3つの柱からなる「ワシントン・コンセンサス」を適用することで、かえって適用された国々の状況が悪化したことを批判。市場は一定の目的を達成するための手段。民営化、自由化などは、それ自体を目的とみなすべきではなく、あくまで手段とみなすべき。その上で最重要な課題は、失業を防ぎ完全雇用を目指す政策であり、不況であれば、政府が適切なマクロ経済政策で対応すること。
第3章 日本のエコノミストたちは何者か?
第4章 日本経済学の失敗
- 構造的要因の解決には構造改革、循環的要因の解決にはマクロ経済政策、というのが正しい経済政策の割り当て。*1これに対し、不適切な政策割り当てに基づく経済政策を「構造改革主義」と命名。例えば、小泉政権下の経済政策は、潜在成長率を高めること(構造改革)が現実の成長率を高めると考える。しかし、潜在成長率自体は政府が直接にコントロールすることは可能でない。
- 笠信太郎は、日本銀行によるマネーサプライのコントロールでは物価水準を決定できないとリフレ政策を批判。独占資本(軍需部門)の拡大と財政部門の拡大を必然的に招き、やがて植民地獲得の意欲に至ると予測。その上で、資本の一般的危機状況は、従来の経済主体の経済動機の「再編成」と「清算」によって解決すべきであり、戦時経済の構造的問題として、生産力の拡充、物価の安定(事実上のデフレ状態の維持)、財政問題の解決、の3つの課題を挙げる。産業部門の高成長が軍需という政府支出に支えられる産業構造は危うく、潜在成長率を高めるため、衰退産業である輸出部門(紡績など)の国際競争力を高めることを意図。そのために必要な実質賃金、名目賃金の切り下げのため、私的利益の追求を超えた「高き経済倫理」を経済主体に求める。
- 三木清は従来の知識人への不満(文化相対主義への零落)を笠と共有し、昭和研究会での活動を通じて、日本の「再編成」を「文武の経営技術官僚(テクノクラート)」に託する。また、同じく「構造改革主義」の文脈から位置づけられる都留重人、森嶋通夫、高田保馬、西部邁、村上泰亮等の思想(略)。
第5章 期待の経済学を求めて
- ヴィクセルの短期の不均衡動学によれば、実体経済と貨幣経済を媒介する要因として、自然利子率(財市場における投資と貯蓄が等しいときに成立する利子率)と市場利子率に注目。自然利子率よりも市場利子率が上回ると、企業の収益が悪化して投資が減少し、超過供給が発生、デフレ的な累積過程に陥る。
- フリードマン流に読み替えると、自然利子率は「均衡実質利子率」と定義され、これは「市場実質利子率」と異なる場合がある。「均衡実質利子率」がマイナスである場合、名目利子率がゼロであっても、経済主体にデフレ期待があると、「市場実質利子率」はマイナスにならない。この不均衡を解消する方策は、①自然利子率を変化させること、②デフレ期待を解消すること。*2「構造改革主義」は①の立場をとり、「期待の経済学」は②の道を援用した。
- 「期待の経済学」の伝統を引き継ぐ鬼頭仁三郎の貢献、及び高橋亀吉の「レジーム転換論」(略)。ホートレイは、ケインズ的な長期期待が不確実性に晒されていても、それが財政政策、産業政策だけでしか調整可能なものではなく、金融政策によってもコントロール可能であると主張。
第6章 レジーム転換の経済学の登場、終わりに代えて
コメント 1〜2章は、結果的に経済運営を成功裏に導いた小泉政権の経済政策の検証である。小泉政権では、不良債権処理など市場経済システムに親和的な政策運営を行ったことが、経済の潜在的な力を高め、社会の活力を回復させた、というのが世間一般の認識に近いものだろう*3。しかし、現実には、「受動的なマクロ経済政策」=「何もしないこと」や、03〜04年の巨額の為替介入+量的緩和政策というリフレ的な政策が、景気回復を導いた可能性が高い。この事実は、松方財政に対する正しい検証を行わなかったことが、結果的に昭和恐慌時の間違った経済運営を招いた、とする安達誠司氏の指摘*4を踏まえると、このままにしておくべきものとも言えないだろう。また本書では、スティグリッツの議論を援用しながら、民営化、自由化などは、それ自体を目的とみなすべきではなく、あくまで手段とみなすべきであり、最重要な課題は、失業を防ぎ完全雇用を目指す政策であり、不況であれば、政府が適切なマクロ経済政策で対応することであると指摘する。
しかし、この本の本当に凄い所は4章以降にあり、ここでは小泉改革の持つ「構造改革主義」的な思想の源流に遡り、笠信太郎、三木清、都留重人、森嶋通夫、高田保馬、西部邁、村上泰亮等の思想を「構造改革主義」という一点から見事に格付けられる(この間、たった54頁!)。この「構造改革主義」の最終的な眼目は、費用の逓減が「見込める」産業を中心に、国家(官僚)が主導して、産業構造を「再編成」することにある。しかし、市場の調整メカニズムによらず、国家が主導してそのような産業構造の大転換を図ることは果たして可能なのか、或いは失敗の責任は誰がとるのか、非常な疑問を感じるところであろう。
最後に、ヴィクセルに遡る「期待の経済学」を概観し、レジーム転換により経済主体の期待を変えることの重要性を指摘する。また、石橋湛山の「小日本国主義」を媒介としたリフレと平和の結びつきについて論じられる。