2023年6月刊。J・S・ミルといえば、父ジェームズやジェレミー・ベンサムの薫陶を受けた早熟の天才との印象を持つ。本書では、評伝という形式で、ミルの思想の全体像をみる。
マンデヴィル『蜂の寓話』により、人々の欲求が勤労と消費需要を促し文明社会が進展すると主張されたのは17世紀半ば。本書においてミルが大きな影響を受けたとされるベンサム『立法論』は、その数十年後に出版されている。功利主義、自己利益優先の普遍的原理は、先天的で固定的なものとされる道徳や立法観に対置された「最大幸福原理」と結びつく。ミルは、ベンサムに強い影響を受けつつも、その自己利益優先の原則と、公共の利益のために活動しているとの自分自身に対する確信との関係は、後の「精神の危機」へとつながることになる。
精神の危機
ミルは、本書が『自伝』から引用する「仮に自分の人生の目的がすべて実現されたと考えてみよ。自分の待望する制度や思想の改革がすべて、今この瞬間に完全に達成されたと考えてみよ。これは自分にとって果たして大きな喜びであり幸福なのだろうか?」との問いかけに対し、「否!」との答えを得、目標を失い意気消沈する。また、ベンサム主義者は「推理する機械」だとする批判、既に形成されている性格(精神の型)は後になって変えることはできないという宿命論がミルを苦しめる。本書では、ミルの「精神の危機」の原因を、父に対する恐れと尊敬の両義的感情を持つミルの自立願望が生んだダブルバインドの状態にあるとみる。さらに「精神の危機」からの脱出を、本書では、『自伝』の中にある”unlearn”という言葉の中に見出す。
その後のミルは、ベンサムの哲学に欠けている非利己的な精神を実現する力と、それを喚起する倫理にあり方を探求することになる。ベンサムや父ジェームズは、全ての人間は例外なく、自己利益を優先するものであるから、統治者も自己利益を優先すると考える。ジェームズ・ミル『政府論』は、このため統治者を選ぶ選挙人の範囲を拡大し、多くの選挙人の利益を統治に反映させることを主張する。これに対し、ミルは自己利益優先の普遍性という人間本性の見方だけでなく、後にトクヴィルへの共感として認識される「多数者の先制」、「大衆の画一化」に関する問題意識から、民主化や政治制度といった仕組みのみに依拠する考え方についても修正の必要を認識する。
ミルが幼少期に厳しく指導された「理論と現実は一致しなければならない」という父ジェームズの原則(p.75)は、2000年代半ば頃の典型的な経済政策論を思い起こさせる。一方、「正しい理論でも現実の場面に適用するときには修正が必要」という考え方を、俗説であり、「理論が不十分であることの言い訳でしかない」とする見方については、その当時の論者は、むしろ現実が非合理的であることの証左と考えていたように思われる。この話に関しては、後に『自由論』との関係で論じられる「無謬性の想定」(自分が間違うはずなどないという思い込み)との関係から考えてみるのも面白い。
なお、本書では、「定常状態」という言葉に代表されるミルの経済学者との側面については、最低限触れられるに止まっている。
『自由論』、『代議制統治論』、『功利主義』
本書の後半では、『自由論』、『代議制統治論』、『功利主義』というミルの代表作について、それぞれ章を立てて論じられる。ただし、一般的な知名度と比して、本書の中での『自由論』の位置づけは、他の二書よりも低く扱われている印象を受けた。例えば、選挙制度など統治システムに係るミルの見方について、本書では多くの頁を割いて広く紹介されており、また『功利主義』に係る章では、作為の指示と不作為の指示の違いが「自由原理」(危害原理)との関係において論じられ、これに関しては、後に「あとがき」でも再度触れられる。
人間が道徳に従うときに作用している動機付けを「サンクション」と呼び、これには行為者の精神に内面化された内的なものと、宗教や法制に基づく外的なものがある。外的サンクションによる抑圧である多数者やエリートの専制とは別に、内的サンクションによる「良心の専制」という抑圧もあり、こうしたことが生じる原因は、人間の行為に対する二元論であり、中間領域にも積極的意義があることを認めないという誤りにあるとする。ミルにおける自由の重視、抑圧に対する忌避感は、功利主義の原則との間に齟齬を生じさせているような印象も受けた。
功利主義(最大幸福原理)は、ミルにおいて、歴史的な変化に答えつつ人々の幸福の増大を目指すものとされる。しかし、効用は人々の客観的な状況を反映するものではなく、極端な苦難と欠乏の中にある人々は、その状況に折り合いをつけてしまう。このため、効用に対置する概念として、どれほどの選択肢の自由があるか(ケイパビリティ)を重視するアマルティア・センの考え方がある(鈴木恭子『なぜWell-beingを「幸せ」と訳すのでは足りないか?』*1)。この「ケイパビリティ」という概念については、ミルの思想の「進化」というよりも、かなり近いところで「接続」しているように本書を通して感じられた。
近年よく聞かれる”well-being”という言葉の概念は、単に効用を意味するものではない。先に参照した鈴木論文では、大沢真理の理論に依拠しつつ、経済至上主義は格差と不平等をもたらしてきたこと、また日本社会におけるケイパビリティの低さを指摘し、これまで日本の労働政策とそれを動かしてきた権威に内在する「自己欺瞞」性とでもいうべきものを暗に批判する。実際、我々は何かを変えようとしつつ、何も変わらないであろうことを理解しているのであろう。また、ミルは女性の政治参加を重要視したことが本書に何度か触れられるが、同時代における女性が置かれた社会的立場は、上記論文記載のかつての女性の労働環境に関する議論ともパラレルであり、相通じるものがある。
いずれにしても、功利、自由、成長、格差等々の関係をどう整理し、どう折り合いをつけていくかは難しく、無限に続く実証上の課題ともいえる。