備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

フリードリヒ・A・ハイエク「自由の条件[2] 自由と法」(3)

自由の条件II ハイエク全集 1-6 【新版】

自由の条件II ハイエク全集 1-6 【新版】

「多中心的秩序」の自生的形成

 「自由」とは何か−−この本源的な問いかけに対し、ハイエクはそれを強制の無いことと暫定的に定義する。強制とは、他人の目的のためその意志に奉仕することであるとされ、各個人の保護領域に対する他人の介入を防ぐことで、強制からの離脱は可能になる。この自由の解釈には、保護領域の範囲を何処まで認めるのか、という困難な問題が付きまとうこととなろう。これは、人権を巡って、「公共の福祉」の解釈への共通の了解を得ることが困難であることと相似的である。
 一端この議論は置くとしよう。次にハイエクは、保護領域の設定は、恣意的・固定的であるべきではなく、「一般的規則」に沿い定められるべきであるとする。また、この一般的規則の下では、個別主体の先見性が働き、社会的秩序は形成される。社会的秩序とは、統一的管理・中央の指令の下で形成されるものではない。一般的規則の下で、始めて秩序が形成され、個人的自由は可能になるのである。この様な、「多中心的秩序」(M・ポランニー)の自生的形成こそが、私法的世界におけるハイエクの理想の表現であり、自由な市場経済の下で社会が発展する土台である。
 この様に、ハイエクの思想の下では、社会的秩序を構成するための制度・慣行・コンヴェンションが重要視される。これは、決して(あらゆる規制に反対する様な)自由放任的社会を礼賛するものではない。後者の立場は、ハイエクの見方からすれば、むしろ市場の崩壊をもたらすものと言えるだろう。

「自由」を巡る新たな問題

 前の議論に戻ろう。此処で、国家・社会・公共の利益と個別主体(個人や企業)との関係が問題として浮かび上がる。ハイエクは、立憲主義に対し一定の評価を置いており、立法者が定める個別の法律よりも、超−法的原則或いは政治的理念を重視する。このため、これらを同一視する法実証主義(H・ケルゼン等)の思想に対しては、手厳しく批判することとなる。
 ハイエクは、その理想とする国家・社会の在り方を「法の支配」という言葉を用いて表現する。その下では、立法権は上位の法に従う必要があり、その是非を判定するのは、司法権を受け持つ立法とは別の主体であることが必要とされる。
 個人の保護領域に対する国家・社会・他の主体の介入という論点は、今日においても重いものである。「アーキテクチャ」(L・レッシグ)が嵌め込まれた経済・社会において、個人の自由は可能なのか−−との議論は、その代表である。この論点は、ハイエクが一般的規則を重視するのに対し、国家や社会の恣意が制度・慣習を経済・社会の中に設計することで、新たな管理の可能性を示唆するものであり、こうした下で、自由は不可視の脅威に晒されることとなる。
 それだけではない。保護領域の設定によって個人の自由が確保されたとしても、その結果、保護領域内部での個人の「専制」を許すことになるのではないか(企業と従業員の関係、DVの問題等)−−との議論も有り得るだろう。この状況では、社会における形式性を纏わない人間の「剥き出しの生」が権力の標的とされるため、より深刻さが増すこととなる。
 本書は、これらの問題への回答を導くものではないが、少なくとも、こうした「自由」を巡る新たな議論に向けた土壌を形成するものであると言える。