- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/09/06
- メディア: 新書
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- ボッブズの考える「自然状態」が自然権と自然法が対立し合う「戦争状態」であるのに対し、ロックの考える「自然状態」では、自然法が成立しており、相手から奪うことで失われる機会費用が大きい。そこには、「世界の広さについての想定」というエコロジカルな条件の違い。ボッブズが想定しているような状況は、「成長の限界」に達したゼロサム社会とロックがモデル化した社会との中間にある(ゼロサム・マイナスサム社会では、私的所有、市場経済という仕組みがそもそもうまく働かなくなる)。また、ロック的な状況が必ずしも安泰というわけではなく、市民社会が何らかの理由で「成長の限界」に突き当たるならば、ボッブズ的な状況への移行が起こりうる。
- ヒュームによれば、ボッブズ的な「自然状態」を脱して自然法を発明することの利益は明らかであり、「自然状態」が実在することはあり得ない。また、国家の契約による設立の可能性を認めつつも、そのような太古の契約が拘束力を持つのは信じられないとする。ロックは、成人する際に、社会契約への参加如何を問われるとするが、ヒュームは、そのような選択肢を現実に行使できるのは、少数の財産と教養ある人々にすぎないと批判。ロックは、土地を持たない人々は、国家の成員とは認めない。
- ヒュームが、人が国家に従わなければならない理由とするのは、端的にその「利益」。ボッブズ/ロックの社会契約論に対するヒュームの代替案の中核にあるのは「コンヴェンション」の概念。これは、言語が典型で、明文化・公式化されていないにもかかわらず、人々に共有され、日々行われていることを通じて維持されている慣行、及びそうした慣行を作り上げ、伝播させるメカニズム。
第2章 「市場」論
- 分業を引き起こす仕組みが市場(とそれを通じた交換)であり、その利益を明快に論じたのがスミスであるが、分業が進めば、労働の内容が単純化してさほどの知識も技能も必要でなくなり、労働者階級たる庶民の知性、特性は次第に衰えていくのではないかという懐疑をも表明。この問題に対し、庶民層の指定に対する学校教育の義務化という提案。
- 開かれた市場に警戒心を抱くのは合理的。不確実性が大きい場合、とりわけ、結果的に絶対的な損を被ってしまった人々にとっては、市場での競争はパレート改善的な仕組みであるよりは、あたかもボッブズ的な弱肉強食であるかのように見え、他人の儲けが自分からの搾取であるかのように感じられてしまう。
第3章 「資本」論
- ボッブズやロックが所有について論じる際、そこで主に念頭に置かれているのは土地であり、つまりは「資産」。これに対し、交換のネットワークとしての市場を分析する経済学においては、資産ではない、小さくてそのまま消費されてしまうような商品の取引の方がむしろ基本。土地や資本などの「資産」の市場、「生産要素市場」についての理解がなければ、市場経済は社会全体を組織する自立的なメカニズムとしては理解されない。
第4章 「人的資本」論
- マルクスによれば、資本家と労働者との間で取引されているのは、「労働」そのものではなく、労働する能力である「労働力」。これに対し、新古典派経済学者は、「人的資本」という概念を生み出す。これは、労働市場で評価される限りでの人間の能力、体力、知識、人間関係処理能力等々を特殊な財産と見なし、賃金をそのレンタル価格と見なす。ロック的国家と労働力の関係を考える時、「雇用とはそもそも交換・売買ではなく、貸借でさえない、取引の対象となる「もの」など無い」という立場に立ち、国家との関係を所有権ではなく、契約の権利・契約による権利の保障・保護を軸として考える見方*1と、労働力=人的資本という「もの」の所有者として、その所有権の保証・保護を軸として考える見方が思いつく。
- 雇用形式には、おおざっぱにみて、家内奉公から現代の常雇ホワイトカラーに至る系譜と、個別業務の請負に近い職人的、あるいは労務者的雇用の2つの系統。平凡な人間が安定した職業生活を営もうと思うなら、前者を目指した方が安全な場合が多いであろうが、その道は同時に、自分自身のキャリア(労働力=人的資本の内実)の設計と管理の権限を雇い主に売り渡すことになりかねない。
- (筆者によれば、)労働力=人的資本というものが存在し、それはれっきとした資産である、との擬制を貫き、そのような財産権の主体として労働者を位置づけるものとして福祉国家を構想するべき。不確実性の存在は、しばしば絶対的な生活水準の低下を不幸な少数者にもたらすが、それ故、不確実性を保険によってカバーする制度的工夫を中心に「セイフティネット」が設けられる。
エピローグ 法人・ロボット・サイボーグ−資本主義の未来
- 株主であっても、過半数株主でなければ会社の資産の完全なる所有者と言えない。「株式持ち合い」や「メインバンク制」は、実態として、債権者に過ぎない銀行による会社のコントロールを可能とし、株主によるコントロールを遮断しつつ、あたかも法人そのものが主体であるように振る舞わせることを可能とした。また、経営者、従業員を中心とするステークホルダーは、「会社それ自体」を守るのが目的であるようなふりをしつつ、それによって結果的に自己の権益が守られるべきことを意図する。「会社それ自体」を実在する人のごとく思いなすことには、それなりの合理性があるが、そのような心術は「信仰」であり、とても危うい。
- 自律型ロボットが出現したら、ある意味、奴隷制度を再び呼び戻すことになる。また、「雇用関係は奴隷制ではなく、その下で労働者は自由な主体である」との主張は、「雇用関係において、雇い主の支配下にある身体は、労働者の財産=人的資本ではあっても、労働者それ自体ではない」という理屈を論拠とする。そうすると、自分自身の身体というものをより高く売るために、人々はだんだんとサイボーグ化していくのではないか。サイボーグ化により、人間が互いに多様な存在へと分岐していけば、「感受性」の有り様も変化することで共感の可能性が失われ、公共圏もいよいよ解体へと向かうのではないか。
コメント 「構造改革主義」への批判は理解できるが、そのオルタナティブとして提示されるのがロナルド・ドーアの賃上げ論というのはどうよ、というのが「教養」読後の違和感の1つであったわけだが、本書を読んでいるうちに、何となく、理解できるような気もしてきた。一方で、「自己責任と競争原理の徹底、また、そこからもれた人々に対してはセイフティネットによる保護」といったものの見方は、ここ10年程来の社会的潮流であるが、それによって生じる格差について、本書の立場では、ある程度許容しているようにも読めるのだがどうなのだろうか。*2そもそも、個々人の技能や意欲に応じて労働力の質に違いがあるのだから、労働市場で評価される限りにおいて、差が生じるのは仕方がない。*3ただし、ロック的条件を確保するためには、適切なマクロ経済政策による成長率の確保は重要、ということになるのだろう。
違和感として残るのは、若年雇用問題とか請負労働者の労働条件といった、必ずしも社会的に許容し得ないような格差問題がある中で、「職人的、あるいは労務者的雇用」に親和的な立場をとるのはどうかということ。マクロ的見方に立てば、企業の合理的な判断によるコストカットが「合成の誤謬」をもたらし、潜在的な成長力を低下させてはいないか、といった形で批判もし得るところかと思う。−といったことを考えていると、本書の抽象的な議論が急にアクチュアリティを持ってくるような気がするが、いずれにしても、もう少し考えてみる。