備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

フリードリヒ・A・ハイエク「自由の条件[3] 福祉国家における自由」(3)

自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

労働組合社会保障制度への厳しい視線

 第3部において圧巻といえるのは、最初に指摘される労働組合社会保障制度、そして所得再分配に対する徹底した批判である。
 まず、労働組合からみていきたいが、ここでは、ハイエク労働組合に対する画一的な見方を押さえておく必要があろう。ハイエクからみた同時代の労働組合は、組織化のため労働者を強制し、市場における「公正な」水準を超える実質賃金を要求する。無論、現在の地点からみると、高い組織率と大きな所得再分配の仕組みを持つ北欧諸国の繁栄*1や、生産性向上のため、使用者と協力する日本の労働組合の事例などから、ハイエク労働組合観を批判することは可能であろう。
 このような労働組合に対する画一的な見方は、のちに、デフレよりもインフレの危険性を指摘することにも関係している。労働組合の過度な賃上げ要求は、他の条件が一定の下では、完全失業率を上昇させる。ところが、完全雇用の義務は、金融・財政当局に課されているため、労働組合はその責任を問われることなく、失業の痛みを緩和するための金融政策によって、インフレが進むことになる。しかも、インフレの効果は短期においてしか成立しないため、インフレはさらなるインフレの高まりを生むことにもなる。
 累積的に高まるインフレへの過度のおそれは、現代、特に長期のデフレを経験した日本においては、むしろ違和感を持って受け入れられるだろう。私見では、日本の労働組合は、賃上げ要求、特に、これまで十分に組織化が図られてこなかった非正規雇用者の賃上げをより積極的に要求すべきであったように思う。また、ハイエクの指摘する「ある機械的な規制によって、短期的決定における当局の手を拘束すること」は、多くの国々で現実のものとなり、安定した経済成長の実現に寄与している。現代社会は、ハイエクの懸念を超えて、マクロ経済運営のより有効な技術を取得することができたのである。*2

現代的な視点からみた所得再分配

 次に、社会保険の名の下に実施される事実上の所得再分配や、一定の税率を超える累進課税に対するハイエクの見方をみたい。これらの論点からも、自生的秩序への「歪み」をもたらすあらゆる制度に対するハイエクの徹底した批判を読むことができる。
 この点についても、現代的な視点から批判を行うことは可能である。例えば、ロバート・フランクは、現代の米国では、小さなパフォーマンスの差が大きな報酬の格差を生じさせる傾向が強まっていることを指摘する。この傾向は、最も優良なサービスを「複製」可能にする技術の進展から生じたものであるが、不平等が過度に拡大すると、余暇よりも仕事を偏重する傾向が強まることなどから、必ずしも国民の幸福にはつながらない。フランクは、これらの問題を検討した上で、累進的消費税の導入を推奨している。
 大きな所得再分配をともなう福祉施策は、確かに、ハイエクが指摘するように、その「公正な」水準を、客観的に定めることは難しい。しかしそれは、ハイエクの許容する「最低限度の保障」の水準を決める際にも同じ問題は生じる。貧困を定める水準の考え方については、これまで、多くの議論が繰り返されてきた。さらには、「最低限度」を仮に定めることができたとしても、ある特定の貧困層は、慢性的に、貧困層に位置し続けるような傾向もみられる。このことは、貧困問題は、経済の発展によって全て解消するような性格のものではなく、常に何処かに存在し続けるものであることを表している。この点を踏まえると、「最低限度」を字義通りに受け取ることはできず、その基準は、比較的高いものであるべきなのかも知れない。

市場は常に「公正」であるか?

 最後に、自生的秩序の代表である市場について考えてみたい。市場は、確かに、自然発生的に生じ得るものであるが、ハイエク自身も指摘する独占や、情報の問題、外部性などの課題の存在から、その秩序を維持するには、何らかの規制を必要とする。ハイエクの見方からすれば、それこそが法の役割ということになるであろう。しかもその法自体、新たな問題が発見されれば、それに応じて、客観的な基準に基づいて変わり得るものでなければ、市場は、自生的秩序とはなり得ない。
 しかし、法制度のあり方には、恣意性の問題が付きまとうこともある。例えば、情報の問題が顕著に表れる保険商品では、保有するリスクに対応した責任準備金の積立が規制によって義務づけられる。しかし、精度の高いリスク計算に基づいた必要積立水準と、粗い計算に基づく必要積立水準では、必要となる安全率の水準が異なる。このため、積み立てるべき責任準備金の水準は会社ごとに異なり、その結果、保険料率にも違いが生じることになる。しかし、市場によって定まる保険料率は、最も低い水準に収斂しがちであるため、いざリスクが顕在化した場合、保険市場自体への信頼性が失われ、市場そのものが成立しなくなる。このようなケースでは、一定の恣意性に従って、法制度により、標準的な計算に基づく責任準備金の積立義務を定めることも許容されるであろう。*3
 このように、市場やそれを支える法制度も、恣意性から完全に逃れることは不可能である。上記の例では、保険商品のどこまでが「保護領域」として、自由にまかされる部分に相当するのかが、必ずしも自明とはいえない。*4
 一方で、市場は、規制する主体にとっての一つの規制装置でもある。株式会社は、株式市場に参加する者の目に常にさらされ、そのことが、規制として働く効果を持つこともある。(この点については、もう少し検討を要する。)

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 最後に、訳者解説から、本書を読む上で持つべき問題意識とされている事柄について、そのまま引用したい。

法の一般性・確実性・法の前における万人平等・法の訴求適用の禁止などをその主要な構成要素とする法の支配の理念に、はたしてそこまで期待することができるのか。市場をその最も重要な一つとする自生的秩序に対する国家の不当な介入と必要やむを得ない制限とを峻別することが現実に可能であるのか。ハイエク自身も容認する福祉国家の下での数々の社会政策(わけても最低生活の保障や包括的社会保険制度の整備)は、ハイエクの提唱する法の支配の観念と両立し得るのか。

*1:ただし、スウェーデンのように、その繁栄は、国民経済の規模が小さいがゆえ、通貨の切り下げが可能であり、それによって不況を乗り越えることが可能であったことにともなうものでもある。

*2:日本を除くw

*3:ただし、高すぎる責任準備金の積立水準は参入障壁となり、競争が疎外される可能性がある。(03/07追記)

*4:この例の他にも、契約の不完備性が問題となる労働契約に関して、解雇規制の労働市場に与える効果の意義を指摘することができる。