備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』

日本の雇用と労働法 (日経文庫)

日本の雇用と労働法 (日経文庫)

 日本の雇用システムを構成している各種の部分システムは、メンバーシップ型雇用契約という概念を中心におくことで、相互補完性をもちつつ、システム全体に一貫性をもたせるものとなる。一方、雇用システムを制度として考えたとき、その基本原則を定める法制度、すなわち日本の労働法は、ときには現実の雇用システムと対立し、またときには現実の雇用システムと妥協を図りながら、これまで変遷してきた――本書は、戦前から戦中、戦後と続く日本の雇用システムと労働法の世界で、これらの間に生じてきた緊張関係を、上述のような視点によって描き出す。本来、新書として著すには広大な領域をもつ日本の雇用システムの全体像を、本書は、統一的な視点のもとで描き、その結果、おおくの記述を必要とする個々の部分システムについては、焦点の絞った記述としている。

 上述のとおり、本書は、日本の雇用システムを制度的な側面から検討している。ここで鍵となる概念は雇用契約であり、それは、そもそもが契約時点でその内容を明確にすることのできない不完備契約であって、通常の売買契約のようなスポット的契約とは性格を異にするものである。*1特に、日本の雇用契約は、労働者の職務を定めずに企業の中のすべての職務に従事させることができる(使用者には、労働者に対してあらゆる職務を要求する権利がある)ような性格をもつものであり、労働条件を職務ごとに定める日本以外の先進諸国(欧米諸国)の雇用契約とは異なっている。欧米諸国の雇用契約を、本書では「ジョブ型雇用契約」とよび、それと異なる特徴をもつ日本の雇用契約を「メンバーシップ型雇用契約」とよんでいる。
 メンバーシップ型雇用契約は、「同一労働同一賃金」の原則を貫くことのできない査定つき定期昇給制と対象者が限られた年2回のボーナス、新規学卒者の定期採用制、長時間労働と転居をともなう配置転換、「正規」の労働者を優遇する整理解雇法理、OJTを中心とした企業内教育訓練、企業別労働組合といった日本の雇用システムの特徴をなすそれぞれの部分システムに合理性をあたえている。例えば、欧米諸国のような産業別労働組合は、企業ごとのメンバーシップ性が強い日本では、それを構成することの合理性が弱まることになる。日本の企業別労働組合に近いのは、欧米諸国では、労使協議のための従業員代表機関である。*2
 一方、労働法の世界では、一方が労務を提供し、他方がそれに対する報酬を支払うということを原則とする民法雇用契約の規定を引き継いでおり、その基本的原則はジョブ型雇用契約に基づいている。しかし、現実にあるのはメンバーシップ型雇用契約であるため、判例法理の世界では、この基本的原則に修正が加えられることになる。また、企業のメンバーシップ性が強く企業別組合であることから、労働協約就業規則の関係は曖昧となり、就業規則の重要性が強まることになる。

 メンバーシップ型雇用契約は、需要が縮小したときにも使用者は雇用を守り、雇用の維持という面において労働者にメリットがある一方、単身赴任や長時間労働があることで、仕事と生活の調和をとることを難しくする。この問題のほか、より大きな問題として、かつての女性労働者や非正規労働者など、メンバーシップをもたないおおくの周辺労働者を作り出し、これらの労働者の雇用保護は十分ではなく、そればかりか、教育訓練の機会や定期昇給、福利厚生といった「正規」の労働者が享受できる恩恵もえられないことになる。
 もし仮に整理解雇の4要件などに代表される日本の雇用保護規制が雇用の柔軟性に対する足かせとなり、経済を非効率なものにしているのであれば、それはいずれ修正され、そうした中で、周辺労働者と「正規」の労働者の間の格差は是正されることになるだろう。しかし、制度的補完性の下で、日本の雇用システムの効率性が全体として確保されているのであれば、その格差はいつまでも継続することになる。そして、現実が後者であることは、これまでの日本経済のパフォーマンスによって、現実に示されているといえるだろう。本書も、ジョブ型雇用契約に近い報酬システムとしての職務給が、当時の日経連が強く唱導したにもかかわらず、それがかえって生産性の向上を妨げることになるために傘下企業の労務担当者に受け入れられず、「生産性三原則」のもと、合理化のための雇用調整は企業内の配置転換という「内部労働市場」の仕組みによって実施されることになった経緯が記述されている。*3
 日本の雇用システムの「二重構造」は、いかにして解決されるか――本書には、その回答は記載されていない。「二重構造」の解決は、制度的補完性のもとに形成されたシステム全体の見直しを必要とする。現実をみると、新規学卒者の定期採用制、ジョブ・カード制度やそれを進化させた日本版NVQといった職業認定システム、今年から始まる求職者支援制度を含む広義の公共職業訓練などは、いままさに変化の過程にあることを示すものであるようにもみえる。しかし、これらを端緒とすることになるかもしれないシステム全体の見直しは、日本の雇用システムがこれまで可能にしてきた合理化のための柔軟性をもまた、同時に失わせることになるだろう。実際には、このようにして始まった雇用対策のパラダイム変化は成功せず、結果的には、雇用対策の中心は引き続き企業の雇用維持(雇用調整助成金など)に頼ることになるものと思われる。

 おそらく、本書のような制度的視点(いいかえれば「内省」的視点)から、この問題に根本的な回答をあたえることはできない。しかし、視点を「転回」させることで、暫定的な処方箋をあたえることは可能である。つまり、景気の振幅を可能な限り小さなものとし、労働市場がある程度タイト化することが、「二重構造」にともなう格差の問題を是正することになる。
 かつ、上述のマクロ経済的論的な問題解決の視点は、日本の雇用システム、なかんずく企業別労働組合のもとでの労使交渉とも密接に関連していることが、つぎのように指摘できる。1990年代後半から強まる雇用情勢の悪化は、デフレ下における実質賃金調整にともなうものである。しかし、日本の物価上昇率は、バブル崩壊に先立つ1980年代頃から(バブル期の一時的な上昇期を除けば)すでに低水準が続いていたのである。そしてその背景には、物価の構成要素である名目賃金の抑制が関係している。

 本書にも、このあたりの歴史的背景が簡単に触れられている。

 春闘最大の転機は1973年に起こった石油ショックでした。石油価格の高騰によって引き起こされたインフレに対応して、1974年の春闘では30%台の大幅賃金引上げが実現しましたが、これは物価と賃金の悪循環を引き起こすのではないかというマクロ経済的懸念が広がりました。経営側は主要4業種8企業のトップが8社懇談会を結成し、結束を固めました。これを受けて、労働側は賃金コストプッシュインフレの抑制を図るために賃金要求を低額にとどめ、その代わりに解雇の抑制を要求するという運動路線をとりました。日本型の「社会契約」といえるでしょう。これにより、インフレのスパイラルは急速に収束し、日本経済は安定成長路線に軟着陸しました。解雇によらない雇用調整方式が確立し、整理解雇法理が完成するのは、ほぼこの時期です。

 インフレ率が低下することは、生活者には恩恵をあたえるが、実質賃金コストの低減効果を弱めることで、雇用の創出を抑制する。同時に「正規」の労働者によって構成される企業別労働組合が解雇抑制を求めることで、景気の振幅への対応のため、企業が周辺労働者を活用することの必要性を高めることになる。
 日本のデフレ「体質」と雇用システムの「二重構造」の原点のひとつは、このように、石油ショック以降の労使関係に遡って考えることができる。この時代に遡り、改めて労働の価値を高めることができる労使関係システムとはどのようなものかを考え、今後につなげていくことが必要であるようにも思われるのである。

*1:このことについては、以下にも記載した:http://www.scribd.com/doc/45421960/%E7%AC%AC%EF%BC%91%E8%A9%B1%E3%80%80%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

*2:ドイツにはBetriebsratという事業所別の組織があり、これを日本の文脈で整理することが難しい、といった話を聞くことがあるが、これがまさしくここでいう従業員代表機関にあたるものである。

*3:本書では「内部労働市場」という言葉は使われていない。小池和男の『仕事の経済学』が指摘する日本の大企業ブルーカラー労働者の報酬システムの特徴についても、本書では、その形成過程について、それとは違う解釈があたえられている。