- 作者: 松嶋敦茂
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2005/05
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
第4章 自由主義はどのように基礎づけられるか? ワルラスの夢想とハイエクのディレンマ
- ワルラスは、(ラプラスと同様)人間知性の無限進歩を信じ、完全知識を持つ経済人を想定したと思われる。しかし、「科学的決定論」としてのワルラス体系は、理想的認識者にして自由競争の組織者としての「デーモン」を、国家のうちに見出さねばならない。
- ハイエクは、経済過程の終局状態を示す「均衡」ではなく、過程そのものを示すにより適した「秩序」という言葉を好む。この「秩序」には2種類あり、(1)システムから外生的に「創られる」秩序(タクシス)と、(2)システムの内側から自己組織的に「成長する」秩序(コスモス)。後者を、ハイエクは、自生的秩序とよぶ。
- 科学主義・設計主義の4つの観念(略)。ハイエクの「理性」は、(「世界3」(ホッパー)としての)文化・社会システムの外部にあるのではなく、その内部にあって、それとともに成長・進化するもの。同じく内部にあっても、ラプラスの「デーモン」がシステムの全体像を認識し得るのに対し、システム全体を理解することはできない。我々の認識や行為は、特定化し得ない若干のルールによって導かれている。
- 科学においてもある命題を事実に基づいて「正当化」=証明することは決してできない(ホッパーの反証主義の論理)。できるのは試行錯誤を通じた進化でしかない。ハイエクは、幾世代を通じ、明確に認識することなく蓄積し、歴史の淘汰を通じて生き残った知識やルールの集積を重視。しかし、彼は「保守主義者」ではない(ピースミールな改良)。しかし、そのような「改良」の原理・合理的根拠は示され得ない(ハイエクのディレンマ)。
第5章 合理性は道徳をもたらすか? 『合意による道徳』の批判的検討
- ゴティエによれば、完全競争市場は道徳から「自由」であるが、道徳的秩序=国家の枠組みの中でのみ、完全競争市場は機能し得る。社会は諸個人の「相互利益をもたらすリスクをともなう協同的企て」であり、社会的協業はゼロ・サム的状況をもたらすわけではないが、その成果=サープラスの公正な分配のためには、外部経済の存在(フリーライダー等)から、何らかの社会的・道徳的ルールが必要。このルールとして、(1)相対的譲歩*1のミニマックス原理と、(2)ロック的但し書き*2、があげられる。
- ゴティエは、(囚人のジレンマ的状況においても、)何らかの法的強制や道徳的コミットメントをともなわずとも、相互行為を行う諸個人の「半透明性」やペイオフ行列に関する数値的条件を満たし、両者が目的合理的に行為するならば、パレート優位な選択が実現されると主張。互恵的利他主義者が支配的となることを主張したトリヴァースとの類似性。
- ヴァンバーグは、社会制度としてのルールを、(1)協調タイプのルール、(2)信頼ルール、(3)連帯ルール、に分ける。ゴティエの道徳的秩序の持つ2つのレヴェル(自由市場を成立せしめるための道徳的フレームワーク、市場を構成する諸個人の対等性)は、(2)、(3)にそれぞれ対応する。
- 道徳的意志決定を保障する仕掛けとして用意されたのが「アルキメデスの点」−公平・無私な観点から、世界をみるようにし向けたとき、彼が抱くでもあろう仮説的選好。ハルシャーニによれば、社会のn人の構成員のうちの1人の位置に、自分が置かれる確率が等しく1/nであれば、合理的個人は、彼の期待効用を極大化しようと努め、社会の構成員の平均効用水準を極大化することになる。この時、合理的な個人の社会的厚生関数は、社会における平均効用水準に収束。ゴティエの場合、道徳的原理の必要条件である一般性・普遍性を備えているとしても、ハルシャーニやロールズの場合と異なり、あくまで自己の効用の極大化を目指す行為。
第6章 人間中心主義は乗り越えられるか シンガーとスキャンロン
- シンガーの哲学的立場は主観主義。倫理的推論を他の推論から区別するのは、自己の行為を他人に対して「正当化」するという点。これが、人々によって受け入れられるべきものであるならば、「普遍化可能性」(ヘア)を満たさなければならない。この条件は、「(無私)公平性」ともよばれ、功利主義者やカント主義者が道徳性の基本条件とするもの。さらに、シンガーの功利主義の最大の特徴が、平等な考慮をされるべき利益の主体を「感覚を持つ存在」の総体にまで及ぼす点。
- スキャンロンの契約理論は、相互利益のシステムとしてではなく、相互的「正当化」のシステムとして捉えられる。その正当化の倫理性を保障するのが、規範的原理に関する諸個人の「相互承認」への欲求。
終章 一般的ルール論の展開 経済倫理学の構築に向けて
- ヒュームによれば、(1)個人は基本的に利己的であり、限られた利他心しか持たない、(2)財貨は容易にその所有者を移転させられ得る、という事情の下では、所有は不安定なものとなるが、その事態を解決する切り札となるのが「黙約」(コンヴェンション)であり、「同感」の論理。これらに支えられた倫理体系=正義の一般的ルール、および統治組織が経済・社会の基盤であることを明らかにする。
- 現代ルール論の諸類型
- ルール改良の原理について論じる上では、第2の類型が適切。第1の類型は、一般的ルールを人々が志向する動機的理由は、諸個人・グループの利害調整。現代の重要な倫理的課題の解決にとって、この類型は致命的に狭隘。また、ヒューム、ロールズを除けば、その行為論的基盤は著しく合理主義的。第3の類型の歴史主義的・全体論的な理論から、一般的ルールに関する規範的命題を引き出すのは至難の業。(第2の類型に属する)フッカーの規則帰結主義(略)。
- 体制の改革は、一方では、それを構成する個々の制度的ルールの改良であり、他方では、体制そのもののデザイン・ビジョンにおける改革。このビジョンは、(1)自己所有権を保障するルール、(2)公正な競争を保障するルール、(3)「再分配と互酬」(K・ポラニー)の制度を構成するルール、(4)社会的合理性を保障する制度的ルール*3、の相互配置と組み合わせを主要な内実とする。ヴァンバーグは、これらの制度改革は、単に自生的・進化論的メカニズムの作用に委ねることはできず、何らかの設計的要素の導入が不可欠であり、ハイエクの「知識論」的命題を全面的に容認しても、必ずしも第一の点と矛盾するものではない、というスタンスをとる。