- 作者: ポールクルーグマン
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
- 発売日: 2000/11/07
- メディア: 文庫
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本書の日本語版は、1997年の刊行。現在では、経済学による啓蒙的な書籍をみることは珍しいものではなくなったが、本書は、そうした書籍の嚆矢的なものであるといえる。
本書が批判の対象とするのは、主に「俗流国際経済学」である。そして、それを批判するための武器となるのが、国の経済に占める貿易の規模、比較優位の原理、ISバランス、成長会計といった経済学の「常識」である。
ここで「俗流国際経済学」とされているのは、本書の中に例示的に文章化されているつぎのような考え方である(169頁)。
経済の新しいパラダイムが必要になっている。アメリカがいまでは、ほんとうの意味でのグローバル経済の一部になったからだ。アメリカは生活水準を維持するために、きびしさを増している世界市場での競争の方法を学ばなければならない。生産性を向上させ、製品の品質を高めることが不可欠になっているのは、このためだ。高付加価値産業を主体とするものに、アメリカ経済を変えていかなければならない。将来、職を生み出すのは、高付加価値産業である。新しいグローバル経済で競争力を保つ唯一の方法は、政府と産業が新たな提携関係を結ぶことである。
このような考え方の特徴は、国と国との経済関係を、市場経済の中で、企業同士が直面する競争関係のようにみなすことである。そして、いうまでもなく背後に隠れているのは、保護貿易への指向性である。しかし実際のところは、こうした考え方は全く根拠のあるものではなく、「貿易はプラス・サム・ゲームである」(138頁)であるのだ。
今日のように深刻な世界同時不況下では、再び保護主義への指向性が広がる可能性がないともいえない。限られた需要を「食い合う」といったような「短期」の経済観が広がっている中で、あえて今「長期」の視点に立ち位置を定め、経済の成長と国民生活の豊かさは生産性の向上という供給側の働きによってドライブされるのだ、ということを強調することにも意義があるように思えてくる。
クルーグマンは、「俗流国際経済学」を唱えるエコノミストの特徴として、国民経済の規模と比較して、貿易の規模を過大に評価する点を指摘する。現実には、グローバル経済の中における貿易の規模はそれほど大きなものではなく、かつての英国では、当時の米国よりもはるかにその規模は大きなものであった。むしろ、「都市の経済を見ればローカル化が進んでいる」のであり、その代表として、ロサンゼルスの事例が紹介されている。
確かに、全雇用者の中で製造業の占める割合はしだいに縮小している。しかしそれとても貿易の拡大によって生じた部分はそれほど大きなものではなく、むしろそれは国内の消費構造の変化によって生じたものだ。「俗流」エコノミストたちが語るように、製造業の競争力がなくなったことで製造業の比率が低下しているというのは事実ではなく、製造業の生産性はむしろ相対的には高まっており、(相対的に)安くなった工業製品への支出が減少したことで、製造業の比率が低下していたのである。
あるいは、このような言い方もできよう。雇用者の増加が見込めるのは、必ずしも平均的な(労働)生産性が高い産業というわけではなく、労働一単位あたりの付加価値の増分である「限界生産性」によって決まってくる。製造業のように、雇用者一人あたりの資本装備の規模の大きな産業では、たとえ生産性は高くとも、「限界生産性」が高いとは限らない。これは、国ごとに違いが生じるようなことではなく、普遍的な事実である。サービス経済化が進めば労働生産性は低下するが、歴史的にみればそれはなんら変わった話ではなく、無理にものつくりの振興などを図ることの方が歴史の流れに逆行した考え方なのである。こうしたものの見方も経済学の「常識」の範疇であり、内外の「俗流」エコノミストの妄説に対抗するための武器となり得るものであろう。
試みに、日本の家計消費に占める財とサービスの比率をみておくことにしよう。
日本においても、消費構造の変化は生じており、家計消費に占める財の比率はすでに5割を割り込んでいる。製造業比率の低下は、日本においても他の先進諸国と異なることなく生じ得るものだといえる。
また、これを費目別にみたのが下図である。
費目別には、当然のことながら、食料や被服の占める割合が低下している。その一方で、住居や家具・家庭サービス等に要する費用は、交通・通信、娯楽等に要する費用と同様にその構成比が高まっている。意外に思ったのは、教育の割合が小さいことであった。