ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

佐藤俊樹「不平等社会日本 さよなら総中流」

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

コメント 格差問題に関して、本書が主たる関心を呼んだのは、年功序列的な雇用管理によって生じる「経路依存性」をコントロールした職業の世代間相関性をみると、ホワイトカラー上位層職種(W雇上)では、「団塊の世代」から、職業の「閉鎖性」は高まったという事実を提示したこと。高度経済成長等を背景に、非W雇上出身(父親がW雇上)からのW雇上へのなりやすさは高まっている一方で、「団塊の世代」では、W雇上出身の者が多いので、W雇上出身がW雇上になりやすいと、非W雇上出身の者がそこから締め出される。これによって、この「閉鎖性」は生じたことが示されている。この含意に対しては、例えば、盛山和夫氏の批判などもみられるが、一方で、著者が本当に言いたかったと思われる点は、次のような箇所から読み取れるような気がする。

集団主義は、)それがよいかわるいかは別にして、事実として消滅しつつある。そのなかで、個人個人のキャリア、一人一人の社会的地位のどこまでがその人の責任なのかを、はっきりと示さなければならなくなっている。階層の二重底、平等社会のなかの疑惑。

 「機会の平等」というのは、統計などの形で、結果としてみえてこなければ、本当にそうなのかはわからない。「自己責任」のどこまでが本当に自分の責任なのか、最後の段階に達するまでわからない。こうした疑惑が、「機会の平等」として語られることの全てが「結果の平等」なのだという氏の発言からも伺える。
 なお、自分には、氏の語る平等は全て「結果の平等」のように思うし、氏の語る解決策をフィージブルのあるものと「単純に」肯定する気にもならない。また、「終章」において「自己語り」をはじめる姿勢も感心しない。経済成長のみによってW雇上の「階級」化は解消されないという見方を否定するつもりはないが、市場の効率性を高める一方で所得再分配を重視する立場をとるのであれば、必ずしも経済原理を否定する必要もないだろう。そもそも「誰」に向けて、本書は書かれているのか−ある程度、その含意は読み取れるが、そのあり方は、必ずしも成功してはいないように思えるのである。