ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

小田亮「発展段階論という物語−グローバル化の隠蔽とオリエンタリズム−」(岩波講座 開発と文化3『反開発の思想』所収)

 以下、論文の大要。

 後進国が、欧米先進国からの植民地主義的侵略、交易等によって「伝統的社会」から「離陸」し、産業化・工業化が進めば、停滞の要因である伝統的・共同体的要素が一掃され、自律的に「高度消費社会」に移行するという近代化論の発展段階論は、(1)近代化(工業化)を開発=発展と同義にみる開発一元論、(2)開発=発展の過程を一国の成長のごとくみる、(3)低開発=未開発とみる、という特徴を持つ。
 アンドレ・フランクの従属理論や、ウォーラーステインの「世界システム論」は、近代化論への根本的批判を行うが、「周辺諸国」の中にも経済成長に成功する国が出てきたことなどから、勢いを失う。しかし、これらは、従属理論のみならず、近代化論にも見直しを迫る問題であったため、日本やアジア諸国の経済的発展が普遍的モデルとしての欧米の近代化と異なるとする「日本異質論」「アジア異質論」や、アジアの側の「日本特殊性肯定論」が主張された。
 これらの議論は、互いに相手を人種主義やオリエンタリズムと批難し合うが、その対立は、自文化中心主義的な普遍主義と、自文化中心主義的な文化相対主義の対立でしかない。近代のオリエンタリズム(サイード)とは、異文化や他者を排除する自文化中心主義ではなく、その自己の世界にそれぞれ異質で特殊な他者(異文化)を取り込むもので、西洋と非西洋の本質主義的な区分だけでは成立せず、同時に普遍主義的なイデオロギーをあわせ持つ。普遍としての西洋という鏡があらゆる地域に普及していき、非西洋の全ての地域がその鏡によって自らを特殊かつ伝統的文化とみなすようになったことこそ、近代世界システムのグローバル化の効果。これらの議論は、近代そのものを生成したグローバル化を忘却する。

 現在の人類学者は、開発という現象を文化を消滅させるものとして無視するのではなく、グローバルな動きの中でのローカルな文化の再創造という視点からみる。開発一元論による近代化のプロジェクトは、新たな「欠乏」「貧困」を創り出すものでしかないことが、いまや明白になってきているが、現地の人々と同じ反開発、脱開発の立場から語ろうとする人類学者にとってジレンマとなる状況が起きている。
 まず、反本質主義ないし文化的(脱)構築主義に立つ人類学者にとって、反開発運動の持つ「語り」は、「美しき未開人」像や純粋な伝統文化を認めてしまう本質主義に他ならない。しかし、その点を批判すると、ともすると現実に進められている乱開発を正当化しかねない。
 第2に、現地の人々自身が逆に開発=発展や近代化を望んでいることがある。また、「悪い開発」と「良い開発」を分ける議論から派生する「オータナティヴな開発」論も、今では、近代化や開発を続けようとする立場からの開発政策を継続するためのスローガンとなってしまっている。
 第3に、ローカルな場を生きる人々が一枚岩ではない。

 「戦略的本質主義」(スピヴァック)という、戦略的に用いられた本質主義に対する批判を留保しようとする立場は、確かに、第1のジレンマを解消してくれるようにみえるが、「脱構築をどの時点でやめるべきなのか」については、最終的には「政治的な正しさ」によるという他ない。「政治的正しさ」は一貫しているとしても、「生活の便宜」についての非一貫性が見落とされる。
 人々の「生活の場」は、固有文化の世界と開発の世界を横断するものとしてある。しかし、そのような生活の場の横断性が、(脱)構築主義でも戦略的本質主義でも見落とされている。「良き開発」論の持つ普遍性は、むしろ抵抗の柔軟性や臨機応変性を奪う。かといって、反近代主義のように、固有文化の世界に閉じこもることは、近代イデオロギーの創り上げた閉鎖的な共同体に搦め取られることになる。
 しなやかさを保ちながら、開発に抵抗する道がないわけではない。横断的に営まれる生活の場における便宜的な臨機応変の戦術こそが、世界システムを支える近代イデオロギーを崩していく、しなやかな抵抗となる。

(参考)

 上には引用していないが、日本特殊性肯定論者が、「文化の相対性に則って日本が特殊であると認めることが、日本は普遍でないことを認めることになる」ことを理解していないことの批判から、榊原英資「文明としての日本型資本主義」を批判するに至るくだりも面白い。