備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ジェイク・ローゼンフェルド(川添節子訳)『給料はあなたの価値なのか 賃金と経済にまつわる神話を解く』

 原題は”You’re Paid What You’re Worth: And Other Myths of the Modern Economy”で、2021年に出版(邦訳は2022年2月刊)。
 著者は、大学学部での社会学の講義をきっかけに「なぜある人はたくさんもらって、あるひとはもらえないのか」との疑問を持ち、給与の決定に関する既存の説明を疑うようになった、とのことである。その既存の説明とは、賃金を労働の限界生産物とする新古典派経済学のそれであり、またそれと整合的な人的資本モデルである。しかし労働の限界生産物を測ることは困難である。企業が従業員と取り交す給与秘密保持契約は、企業と従業員との間に情報格差を生じさせ、労働市場において買い手独占の状況を生む。また企業は従業員と競業避止条項を含む契約を交すことで、労働移動に伴う給与上昇に制約を課す。
 米国では、上位層の給与が急激に伸び、平均的労働者の賃金は停滞することで、格差が広がっている。その要因について「決定版」(サマーズ)とされる説明が技能偏向的技術進歩であり、人的資本モデルとも合致する。この考えによれば、高度な技能を要求する仕事の増加に対応するため、教育を再構築することが政治的課題となる。しかしこの説明には瑕疵があり、格差が拡大する中、大学の賃金プレミアムは低下している。また技術進歩の影響を受けず学歴を必要としない仕事でも、賃金は大きく低下している。

権力、慣性、模倣、公平性

 では何が給与を決めるのか。著者の言う「私たちの給与を形づくる基本的な四つの要素」は権力、慣性、模倣、公平性である。権力とは反対に直面しても自分の意見を通す力であり、組織には、その収入の分配を決めることができる者がいる。そして組織の賃金構造を理にかなったものだ思わせることができれば、その構造は正当なものとみなされ、慣性が働くようになる。ある組織で慣性が働けば、他の組織もそれを模倣する。CEOの桁違いな給与も、業界他社の基準を調査しそれを模倣することで、相場が形成される。さらに従業員の公平性に関する意識は、賃金決定に様々な影響を与える。

 最後に著者は、働いた人が報われ桁外れな分け前を受ける人が存在しない公平な経済を実現するため、賃金の下限を引き上げ、中間層を拡大し、賃金の上限を引き下げることが必要だとする。具体的には、最低賃金を引き上げ、また従業員に十分な給与を支払う企業を支援し、労働組合の活動を支援することで、内部労働市場を復活させ従業員の給与に年功序列制と職階制を復活させることである。
 最終章(第9章)では、最低賃金の引き上げが雇用を抑制するという通説に対し、2019年の論文等を論拠に、最低賃金の引き上げは雇用に影響せず、むしろ自殺率や再犯率の低下をもたらすとする*1。内部労働市場についての議論では、年功序列型賃金制度について「私たちはふつう経験を積むたびにその仕事をうまくできるようになる」ことから成果主義と対比されるものではないとし、生活給的発想から「人生の展開にうまく合致することが多い」とする。これは年功制が消滅しつつある現下の日本の賃金制度にとって逆コースといえる指摘である。

 新古典派経済学で語られる賃金の決め方は、一定の前提を置いた上で抽象化された議論であり、一方、実際の現場では「権力、慣性、模倣、公平性」が大きな役割を果たすとする著者の見方にも妥当性はある。それぞれの立場において、準拠すべき理論をどこにおくかは変わり得るもので、上位層の賃金があまりにも高くなり過ぎた米国の議論では、新古典派経済学とは異なる準拠理論が必要だろう。コロナ前の米国経済のような景気拡張期では、通常、労働市場は売り手が有利となる一方で、最低賃金の引き上げはそれに見合う技能を持たない労働者の雇用を抑制するとされる。しかし実証研究が示すように、景気拡張期にも拘らず最低賃金の引き上げは雇用を抑制せず、労働市場が買い手独占の兆候を示すのであれば、新古典派経済学に準拠した議論が前提とする条件を改めて見直す必要がある。
 なお牧野邦昭慶大教授は、読売新聞誌上の書評*2において、「賃金が被雇用者の能力ではなく『権力、慣性、模倣、公平性』で決まるという本書の指摘は、実はかつて日本の経済学者・ 高田保馬が主張した内容とほぼ同じ」であると指摘する。また高田のいう「人と人との権力関係」と国家権力を比較し、「(本書が指摘する)最低賃金の引き上げ、中間階層の復活、富裕層への課税などは、正論である一方で根本的な解決策ではない」と結論づけている。

*1:一方で著者は、勤労所得税額控除(EITC)については、それがなければ受け入れないであろう金額で人を雇うことができることで雇用主に対する事実上の助成金として機能しているとし、批判的にみている。

*2:https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20220510-OYT8T50009/