備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

渡辺努『世界インフレの謎』

 2022年10月刊。パンデミックウクライナ戦争のさなか、欧米諸国で生じた世界インフレの原因を探る。2022年2月に始まるウクライナ戦争を契機として、原油穀物等の供給制約が生じ、コスト・プッシュ型のインフレが生じているが、専門家によるインフレ予想はその1年ほど前から趨勢的に高まっていた。この世界インフレの確たる要因は、現時点において、まだわかっていないが、著者が考える世界インフレの要因は、パンデミック後、人々の生活様式の変化が「同期」し、供給側の変化を通じ、「新たな価格体系」に移行する過程にあるため、というものである。
 パンデミックが引き起こした人々の行動変容は、政府の介入効果よりも、情報効果により人々が恐怖心を持つことで生じた。消費は、これまでのトレンドが反転しサービス消費から財の消費にシフト、財の生産が間に合わないことでその価格は上昇する。米国では非労働力人口が急激に増加し、その後も労働市場に戻らない”Great Resignation”ないし“Great Retirement”と呼ばれる現象が生じている。企業においてはパンデミック以前から、地政学的リスクに起因した「脱グローバル化」が生じていたが、この傾向はパンデミック収束後も戻らない。これらパンデミックの「後遺症」による長期トレンドの大きな変化は、突然に生じ、いずれもインフレを高めることに寄与する。

日本の「慢性デフレ」

 パンデミックの「後遺症」は、いずれの経路からみても供給側の要因として世界インフレを引き起こす。これに対する中央銀行の対応は、金融引き締めによる需要の抑制である。
 一方、日本に目を転じると、インフレの度合いは欧米諸国よりも小さい。コスト・プッシュ型のインフレは生じているものの、人々の予想インフレ率は低く、個別品目の価格が凍り付く「慢性デフレ」が継続している。このような中で金融引き締めを行うとどうなるのか、著者はつぎのように語る。

 たしかに、日本も米国と同じように引き締めを始めれば、急性インフレという病にはよい効果が期待できます。しかし同時に、引き締めにともない生産や雇用は悪化するので、消費者は生活防衛に走ることになるでしょう。そのとき消費者は、いまよりもさらに価格に敏感になります。そうすると企業は、価格の引き上げによって顧客を失うリスクが高まったと認識し、原価が上昇しても価格を据え置くという姿勢をさらに強めることでしょう。その結果、図4−4のゼロ近辺の品目はさらに増加し、そびえ立つピークはもっと高くなります。
 このように、金融引き締めは急性インフレという病は癒すことができますが、同時に、日本が長年患ってきている病、慢性デフレをさらに悪化させてしまうことにもなるのです。[p.176]

 商品の価格が上がらなければ、企業の収益は増えず、賃金も増えない。日本における金融引き締めは、アベノミクス以降のリフレーション・サイクルを巻き戻すことを意味する。黒田日銀総裁の下での金融緩和政策については様々な評価があり、少なくとも、予想インフレ率を目標とする2%に乗せることには成功していない。ただし、物価と賃金の水準をそれまでの下落傾向から反転させたことは事実であり、現時点で、その水準は2000年代当初の水準にまで戻している。

 一方、日本の低い予想インフレ率について、著者は足許のデータから、長きにわたった日本の「慢性デフレ」、凍り付いた商品の価格について、変化の兆しも感じ取る。またその鍵を握るのが、2023年の春闘を皮切りとする今後の賃金の動向である。

パンデミックが日本の雇用に与えた影響

 著者がパンデミックの「後遺症」と考える”Great Resignation”/“Great Retirement”といった動向について、日本のデータから考えてみたい。
 パンデミックを契機とした今回の経済危機においては、2008年秋のいわゆるリーマン・ショックの時と同様、雇用調整助成金による雇用維持スキームが機能した。2020年4月の休業者は前年差で420万人増加しており、これらの者が離職し失業者となることを防いだ。ただし、同時に就業者数も減少しており、同80万人の減少となった。

 しかしながら、2022年に入り就業者は再び増加傾向に転じている。完全失業率についても、2020年に一時的に高い状況がみられたが、その後は2%台の低い水準が継続している。

 本書で著者は、米国のデータをもとに、フィリップス曲線に生じたトレンド変化に言及し、「新たな価格体系」への移行過程にあるとする著者の見解の一つの証拠とみている。フィリップス曲線には様々なものがあるが、ここでは、横軸を雇用 u_t、縦軸をインフレ率 \pi_tとした場合の散布図に現れる右下がりの曲線のことであり、予想インフレ率 \pi^e_tの他、構造的・摩擦的失業率(景気の変動により生じる需要不足失業以外の、労働者と職のマッチング・プロセスに関係して発生する失業に伴う失業率)  u^*_tを明示すると、

 
\begin{align*}
\pi_t = \pi^e_t - a\cdot (u_t,-u^*_t) + X_t
\end{align*}

のように表現できる。式中の  X_tは供給側に現れる変化であり、通常は、輸入物価の上昇や消費増税等に伴う一時的な物価変動が該当するが、著者の指摘するパンデミックの「後遺症」の影響も、一部を除き、ここに含まれると考えられる。
 しかしながら、フィリップス曲線は、必ずしも線型と考える必要はない。構造的・摩擦的失業率を超えて雇用が改善すれば、企業は大きな労働供給制約に直面し、その後急激に価格は上昇すると考えられるためである。フィリップス曲線の変化をパンデミックの「後遺症」とは別の理由による構造的・摩擦的失業率の上昇と考えても、本書の図に現れる曲線の変化は素直に解釈できる。実際、構造的・摩擦的失業率とほぼ同じ概念を示すものにベバレッジ曲線(失業率と欠員率の関係を表す曲線)に基づく均衡失業率があるが、パンデミックを契機として、これが4.0%から6.0%へとこれまでにない大きな上昇を示したとする指摘もある*1
 以上のとおり、米国のフィリップス曲線の変化には別様の解釈も可能であるほか、日本の労働市場に関するデータからは、”Great Resignation”/“Great Retirement”のような変化を捉えることは困難である。