ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

四方田犬彦「先生とわたし」

先生とわたし

先生とわたし

 英文学者、由良君美について、弟子である著者の目を通した姿、本人自身の言葉、さらにはその出自に遡り、最後は師弟論にまで言及しながら記述する。章題は、メフィストフェレスファウストウェルギリウスなどとなっており、それは、自分自身に認識された師の現れを表現している。ネットの某所である時話題になっていたので、手に取ってみた。以下は、第4章冒頭の文章の引用。

 由良君美は『伝統と原題』1971年4月号に発表した「風景画とナショナリズム」(中略)なるエッセイのなかで、モンテーニュが『エセー』で提示した有名な二律背反の命題に言及している。いわく「私は、ものごとに入りこむのは苦手だ」。またいわく「生きている人々のなかで、生きなくてはならない」。そしてこの二律背反を担うためには、「起源のはらむ生存の受苦を身にひきうけて生き、その果てに〈型〉をのこすこと」が重要であると書いている。
「おそらく、この方途にはキリストさえもいない。キリストは短絡的に世を贖うと称して、再生を約束して殉教した。わたしは彼の恰好のよさが分からない者ではないが、彼は間違っていると思う。わたしの選ぶ道は、キリストの道ではなく、ヨブの道であり、また言うならば、神道の道ではなく仏教の道であり、その仏教も、禅の自力の残滓がどうしても気になるために、これを採る気になれない他力の道である。」
 同じ文章の別のところで、彼は次のようにも書いている。
「生きること自体が恰好のわるいものであり、またそうであればこそ、生き抜いた果てに、いわば生存という糞の山から、わずかばかりの砂金を掴みとり、それを後世に残しうるものであるとすれば、おそらく、真に恰好をつけるためには、糞にまみれ恥多い生存を、息長く歯を食いしばって、ひきうける何かが必要なのである。恰好のための恰好を求めて、他者までも巻き添えにひきずりこみ、短絡の生をヒステリーによって解決するところには、人間も生存も、またおそらくは型も美も伝統もない」

 読書という経験など、所詮は一期一会。こうした文章を突きつけられるとき、今の自分には真に堪えるところもあるのだが、それと同時に、この偶然は必然であったと感じるところもある。