備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

阿部彩「子どもの貧困──日本の不公平を考える」

※文章・注記を若干修正しました。(12/02/09)

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

 日本の貧困率相対的貧困率)は、OECD加盟国の中で上位に属し、なかでも働いている層の貧困率が高いことは、2006年のOECD ”Economic Survey of Japan ”の公表以来、よく知られるようになった。また政府も、今年、相対的貧困率の推計結果を公表し、貧困率が上昇傾向にあることを改めて確認している。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/10/dl/h1020-3a.pdf

「貧困大国」といったセンセーショナルなタイトルも時折みかける。
 本書では、特に、子どもの貧困率の実態と、それが子どもたちに与えている影響について、豊富なデータを用い論証している。

相対的貧困率

 貧困率の定め方にはさまざまなものがあるが、国際比較によく用いられているのは「相対的貧困率」である。相対的貧困率とは、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人員数の平方根で割って調整した所得)の中央値の一定割合(本書に用いているOECDの定義では50%)に満たない世帯員の割合のことである。相対的貧困率のほかの指標としては「絶対的貧困率」があり、例えば世界銀行では、1日の所得が1米ドル以下に満たない国民の割合を貧困の定義としている。
 相対的貧困率では、生活に必要な最低限の収入水準を意味する「貧困線」が国によって異なる。このため、国際比較にこれを用いることには批判もあり、『「日本の相対的貧困層=全体の15.7%」が国際比較上はかなり富裕?な部類に入る』というような指摘もみられる。

相対的貧困率に関する批判には、「絶対的貧困」を表さないということのほかに、等価可処分所得でみた世帯員数の分布の特徴によって中位数が高めになると、貧困率が高めになるというものもある。
 相対的貧困率を用いることについての上記のような批判に対し、本書の著者である阿部は次のように答える。

 この二つ(注:相対的貧困絶対的貧困)は、根本的に異なる概念のように見えるかも知れないが、実は、それほど離れてはいない。ある社会で、何が「絶対的貧困」であるのかは、その社会に存在する人々の考えによって左右され、その社会の生活レベルをどうしても反映してしまうからである。(中略)「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。
 現在では、OECDやEUなど、先進諸国の貧困を論じるときには、「相対的貧困」を用いることが多い。これは、ロウントリーが定義したような「絶対的貧困」は、先進諸国においてはほぼ撲滅されているという前提で貧困が論じられているからである。

 いずれにしても、相対的貧困率は貧困の定義のひとつである。生活の豊かさに直結する個人の消費水準は、その所得に応じて決まるという見方もあれば、周囲にいる人間の消費水準に影響されて決まるという見方もあるように、相対的貧困率もまた、ある見方に立てば、貧困を捉えるための有意味な指標であると考えることができる。

子どもの貧困と「機会の平等」

 子どもは自分の両親と家庭を自ら選択することはできない。幼少期に貧困を経験する子どもは、否応なく、その環境に生きなければならない。もちろん、大人になって貧困から脱却することはある。ところが、本書で最初に指摘されるのは「貧困の連鎖」という事実である。15歳時の暮らし向きは、いま現在の生活水準(食料や家財の欠如、住環境や人間関係の悪さ)と大いに関係している。同様の研究結果は、諸外国においてもみられる。例えば、イエスタ・エスピン−アンデルセンは、「カネ」「時間投資」「文化」を通じて不平等が連鎖することを「社会的相続」という言葉で表現し、就学前の段階からの所得政策の重要性を指摘する。こうした政策は、子どもの現在および将来の福祉に寄与するだけでなく、それを通じて国家の税収にも貢献する。『過剰に限定的で近視眼的な尺度で測られた広義の社会保障会計システム』で政策の効果を判断すると、それを過小に評価することにつながるのである。

 では、この連鎖はどのような経路を通じて生じるのだろうか。例えば、幼少期の貧困によって十分な教育を受けることができず、低所得の職業に就いてしまうことなどが思いつく。実際には、貧困がどのような「経路」を通じて子どもの成長に影響を与えているかについては、十分に解明されているわけではない。本書にある阿部の分析でも、「現在の所得」を含むさまざまな属性をコントロールした上で、「15歳時の暮らし向き」が「現在の生活水準」に関係していることが指摘されている。
 この事実は、いいかえれば、幼少期に否応なく貧困を経験した子どもには、「機会の平等」が確保されていないことを意味する。公教育や奨学金制度を充実させることで、貧困状態にある子どもでもそれにふさわしい教育が受けられるようにすることなど、「機会の平等」を確保するための制度はもちろん必要だが、それだけで十分であるわけではない。本書の第5章では、米国の「ヘッド・スタート」プログラムのような就学前の子どもを対象とする教育プログラムが紹介されているが、これはむしろ子どもが成長した後の格差を改善するという意図において主張されている。
 子どもの貧困を解消するための政策は、必ずしも的確に機能しているわけではない。税や社会保険を通じた所得再分配の前と後の子どもの貧困率を比較すると、日本だけが所得再分配の後の貧困率が高くなっている。貧困を防止するための機能が「逆機能」(大沢真理東京大学教授)となってしまっているのである。その原因は、本書では詳しく分析されていないが、日本の所得再分配が、特に、世代間の再分配によって高年齢者に対する給付を重視したものとなっており、世代内の再分配が、例えば社会保険料の逆進性などにより十分に機能していないことがあるのかも知れない。
 また、特に貧困に陥りやすい属性として母子家庭の実情が紹介されているが、日本のひとり親世帯の就労率はOECD諸国の中でも上位に位置しているにもかかわらず、その貧困率は極めて高い。日本では、生活困窮者の自立支援が重視され、そのパフォーマンスは、数字上は確かに高いものであるが、実際には、生活に追われる結果として低賃金で不安定な仕事に就くことを余儀なくされている可能性を示唆する。それがもたらすのは、親が子に接する時間の減少である。これでは、子どもの貧困の問題には必ずしもつながらないことになる。

貧困の解消に必要なことは何か

 子どもの貧困を改善するため、阿部は、国家の役割を重視する。

 この違いは何によるものなのか。簡単に言えば、その社会における経済状況や雇用状況に加えて、国や地方公共団体による政策である。政策とは、最低賃金や雇用に関わる規制はもちろんのこと、公的扶助や児童手当、公的年金といった社会保障制度である。国が、どれほど貧困を減らすことにコミットしているかによって、貧困率は大きく左右される。

本書の第7章では、対策の具体的なステップとして、11の項目を提示している。

 これら社会保障に関わる国家の役割のほかにも、本書ではまったく触れられていない子どもを含む貧困を改善する「手段」として、マクロ経済政策運営を指摘することができる。本書の図2−2(52頁)の「貧困率の推移」をみると、1990年代半ば以降、特に現役世代での貧困率が大きく上昇している。これは、デフレ経済と貧困率に関係がある可能性を示唆するものであろう。デフレ経済、つまり物価が持続的に低下する局面では、完全失業率も上昇する。このブログでも、完全失業率が上昇すると格差が拡大する(ジニ係数が上昇する)ことを、以前、実証的に指摘した。
 また、先日、簡単なモデルによって示したように、物価の低下によってマクロの所得が縮小すると、賃金の下方硬直性を前提とすれば、失業が増えることになる。賃金の維持(あるいは賃上げ)か、雇用の維持かをめぐり、労働者の間にも軋轢が生じ得る。
 つまり、これらを逆に考えると、マクロ経済政策運営によってデフレ経済を脱却できれば、マクロの所得が拡大するだけでなく、貧困を改善することにもなる可能性がある。将来の不確実性が高まって現金を退蔵させる家計が増えたり、倹約にはしる家計が増えれば、デフレ経済は深化する。消費に対する誘因を高め、所得を維持すること、またこれらを適切なポリシー・ミックスのもとで行うことによって、将来の所得が高まり、貧困が縮小することになるのである。

 しかし、それだけでは、今後の景気循環の不確実性に対処することはできないかも知れない。不安定な雇用が続けば、いずれまた貧困に陥る可能性は残る。また、完全雇用が実現した後においても、しばらくは認めがたい格差が残る可能性は否定できない。現在の所得再分配の機能は「逆機能」となっており、子どもの貧困は引き続き制度の狭間に取り残される。制度の狭間に取り残される人を生じさせることなく、効果的に給付がなされるような仕組みとしては、ベーシック・インカム型の給付が考えられる。しかし、これによってあらゆる層に最低限の生活を保障することは、財源の問題等を引き起こす可能性がある。たとえ実現できたとしても、既存の社会保障を置き換えるような大規模なものではなく、「広く薄い」所得保障を、一部を対象に実施することにしかならないだろう。
 本書の第6章では、「社会的略奪」という状態についての分析を行っている。「社会的略奪」とは、『人々が社会で通常手に入れることができる栄養、衣服、住宅、住居設備、就労、環境面や地理的な条件についての物的な基準にこと欠いていたり、一般に経験されているか享受されている雇用、職業、教育、レクリエーション、家族での活動、社会活動や社会関係に参加できない、ないしはアクセスできない』状態と定義される。(この「略奪」は、「強制された欠如」であって、社会であり、制度であり、他者から強いられることを意味する。)「略奪」状態にあるかどうかを示すものとして、一般市民の合意を参考に選択しこれを総合した指標(略奪指標)をみると、世帯所得がある「閾値」を超えて低くなると、略奪指標は急速に高まることがわかる。阿部の分析によれば、この「閾値」は、日本では400〜500万円程度となる。
 しかしその一方で、『日本の一般市民は、子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い』。つまり、我が国では、最低限の生活を保障する所得、ナショナル・ミニマムは、他の先進国よりも低いということになる。結局、我が国国民の貧困観そのものが「貧相」なのだ。*2

 高齢化が進むと、高齢者に対する所得保障を削減し現役世代に振り向けるような施策を実施することは、政治的により困難なものになる。高齢者の所得保障を維持しつつ、社会保障給付を増やすことで子どもの貧困を改善させるためには、財源の面からもマクロ経済環境の安定が重要である。所得が拡大する環境の中で、より効率的に生活困窮者への給付を増やす政策を「牛歩の歩み」で進めていくほかなさそうである。

*1:なお、このエントリーには『つまるところ、相対的貧困率というのはもっぱら格差の指標であって貧困の指標ではない』との記述があるが、これについて、平家氏が反論している。(http://takamasa.at.webry.info/200911/article_8.html

*2:子ども手当に反対する国民が多いという事実も、我が国国民の貧困観の「貧相」さを示しているのかも知れない。現役世代、特に若者に対する一般国民の寛容度は低く、その反動が昨今のロス・ジェネ論壇であり、一方での既存論壇の低迷や価値観の拡散であるように思える。