備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

濱口桂一郎『働く女子の運命』

若年、中高年、女性という区分けは、日本の労働政策の中では比較的馴染みのあるもので、それぞれに応じた雇用・労働対策が講じられる。このうち近年の女性に関するものをみると、その主要な一部をなすパート労働対策が非正規雇用問題としてどちらかといえば若年の枠で捉えられがちとなり、一方、男女雇用機会均等の精神はすでに社会化されつつあるようにもみえる。そうした中、世界的にみて大きい社会進出における男女格差など、法制度面を超え社会の実相面からその活躍を促進することが課題となってきた*1

著者はこれまでの新書で、若年、中高年の雇用・労働問題を日本の雇用システムの枠組みから論じ、「ジョブ型社会」という解決の方向性を提唱してきた。雇用や生活の安定に資するはずの長期雇用慣行や年功賃金制が、失業した中高年労働者にとっては再就職のハードルとなったように、総合職として将来指導的地位を目指す女性労働者が活躍の場を得る上でのハードルとなる。これは、いわゆる統計的差別(アロー、フェルプス)によって説明される問題であるが、小池和男『仕事の経済学』に記述される統計的差別の日本的な解釈は、男女間の差別的な扱いが「日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになる」原因となったとする。

このように前著『日本の雇用と中高年』に引き続き本書でも「知的熟練論」批判が展開されるが、本書の批判はより(本質的というよりはむしろ)「本格的」である。ここでは、本の主題である女性労働政策からは外れることになるが、まずは、この部分について整理してみたい。

「知的熟練論」批判の概要

日本の年功賃金制の源流を、著者は戦時期の国家総動員体制における「皇国勤労観」にみるが、そこには明確な生活給思想が現れている。戦後は1964年のいわゆる「電産型賃金体系」が時代の典型性を形作る賃金制度となっており、こうした生活給思想を理論づけるものとして、著者は(「私自身全然納得しないのですが」と留保しつつ)マルクス経済学の「同一労働力、同一賃金」の考え方を引用する(1949年の宮川實『資本論研究ニ』)。

こうした生活給思想を源流にもつ年功賃金制は批判を受けつつも根強く生き残り、「能力主義」に基づく職能資格制度として1990年代まで一貫して賃金制度の主流の位置を占めてきたといえる。そしてそれを理論づけ、説得力を与えたのが「知的熟練論」である。ただし著者によれば、「知的熟練論」は当初から年功賃金制の世界的優秀性を理論づけるものとして存在していたわけではなく、当初は、「産業資本主義から独占資本主義へ」という宇野派マルクス経済学の「段階論」に立脚していたことを指摘する。

小池氏はこれを労働問題に応用し、産業資本主義段階に対応するのが手工的万能的熟練であり、職種別賃金率であり、クラフトユニオン(職種別組合)であるのに対して、独占資本主義段階に対応するのが「複雑化した青写真を読み、精巧化した機械の構造に通じる『知的熟練』」であり、内部昇進制と先任権制度(シニョリティ・システム)であるというのです。そして、これをもって当時通説であった日本特殊性論を否定する論拠とします。

ただし著者は、欧米の先任権制度は日本の年功制や長期雇用とは全く異なる仕組みであり、「その実証的根拠はきわめて希薄」であるとする。

さらに小池氏は年功的な賃金の上がり方の実質的理由を「能力」に求めるが、大企業と中小企業の賃金カーブを比較しつつ述べるその根拠は乏しく憶測に過ぎないもので、「存在するものは合理的というヘーゲル的な論理」のみであると指摘する*2

日本的雇用慣行の行く先

上記の批判はきわめて興味深く、ここまで執拗に批判を加える意図を考えずにはいられなくさせるものでもある。いうまでもなくその背後には日本的雇用慣行を礼賛することにより、結果的に、正社員の無限定的な働き方をも正当化してしまったこと、またその仕組みによって「疎外」されることを余儀なくされる総合職女性や「悶える職場」(吉田典史)で苦しむ正社員の姿があるのだろう。

とはいえ日本的雇用慣行は「知的熟練論」とイコールではない。「本質的ではなく「本格的」」と先ほど記述したが、「知的熟練論」の出自や根拠がどうあれ、理論的にコンシステントであるという事実が失われるわけではなく、そうであるからこそこれまで人事労務の実務家等の中でも一定の評価を得てきたのではないだろうか。また以前のエントリーでも指摘したように、条件を緩めて考えれば「暗黙の契約」として年功賃金制の合理性を説明することは可能であるし、一国経済を形作る様々な制度の中での「制度的補完性」によって日本的雇用慣行の生命力は強化されてきた、とも指摘し得る。そうした中、本書における「知的熟練論」の取り上げ方は、ややスケープゴートのきらいを感じさせる。「罪」を着せるべきは、むしろそれを無批判的に利用した政策側の人間の方なのではないだろうか。

しかし何れにしても、日本的雇用慣行を礼賛し正当化し続けることは時代にそぐわない。一度成立した制度は容易には変えられず、「疎外」される人達の苦しみも一足飛びに取り除けるものではないが、例えば、まずは「休息時間」を強行法規的に設けることで日本の正社員の無限定的な働き方に歯止めをかける、というのは最初の一歩となり得るだろう。とはいえ日本的雇用慣行は経路依存的にしか変えられず、結果的に、その行き着く先が日本の産業構造や経済成長にマイナスとなる可能性もある。「労働力の再生産」*3を維持するため、年功賃金制に変わる新たな社会保障制度も必要となる。しかしながら、有名な林=プレスコットの論文では、労働時間短縮を1990年代の日本の経済停滞の一因としたが、週40時間労働をはじめとするかつての労働時間法制の改正について、今に至って多くの人が批判的だとも思えない。身も蓋もないまとめ方になってしまうが、これは社会厚生や幸福度といった視点からも考えるべき問題なのかもしれない。

(追記)

著者のブログで取り上げていただきました*4。リプライいただいたことに感謝します。

まず一点、本書(女子の運命)に関わっては、上記の問題意識ですが、先月取り上げていただいた中高年の本での問題意識はむしろ、本来生活給として作られ維持されてきたものを「能力」で説明してしまったために、かえってその本来の「生活」の側面での問題を正面から理論的に提起することができなくなってしまったことの問題点を、私は結構重視しています。どちらが本質的でどちらが本格的というわけではありません。

子ども手当をめぐる議論の迷走も、最近の奨学金債務で破産する云々の話も、「生活給」が面倒見るはずだったものを面倒見られなくなってきているにもかかわらず、それが「生活給」だという議論が(本音では強力に生き残っていながら)建前上は「能力」だということになってしまっていることが最大の背景だと思っています。この点は、前著の最後で述べたとおりです。

小池批判はスケープゴートではないかというのは、いやいやそれは1970年代後半から1990年代前半までの私の言う「企業主義の時代」の労働経済学を全部ひっくるめて小池理論で代表させてしまうというのは最大の賞賛だと思いますよ。他の学者の議論はわざわざ取り上げるに値しないと言っているに等しいのですから。

年功賃金制(あるいは賃金の下方硬直性)を説明し得る他の理論としては、「知的熟練論」のほかにもアザリアデスの「暗黙の契約理論」や、より有名なものとしてはラジアーの「効率賃金仮説」が当時からあったわけであるが、やはり一定の実証性を備えた「知的熟練論」の影響力が大きかったということだろうか。なお、「暗黙の契約理論」「効率賃金仮説」はともに、『仕事の経済学』の中で、日本的雇用慣行を説明する上では不完全なものとされている。

*1:女性の社会進出を促進したいという近年の方向性は、労働政策の範疇というよりむしろ経済規模の拡大という視点から出てきたようにみえる。実際、家事労働によるサービスの産出はSNA上は産出額の対象とならないが、女性の社会進出により結果的に家事サービスの市場化が進めば、その分GDPは増加する。いうまでもなく、それによって社会厚生が高まるわけではない。

*2:実際、大企業と中小企業の賃金水準の違いは、その一部は労働者属性の違いに帰すことができるにしても、資本装備率の違いからくる労働生産性格差がより大きく寄与しているであろう。

*3:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20160813/1471052174 参照。

*4:http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-9f00.html

真の失業率──2016年7月までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

7⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も3.2%と前年同月から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する6⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4月以降減少に転じていたが、今月は反転している*1

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:今回のグラフから2014年4月の消費増税をダミー変数で回帰処理したため、グラフの形状が以前のものと足許で異なっている

青木昌彦『青木昌彦の経済学入門 制度論の地平を拡げる』

本書の概要(主に前半部分)

昨年7月に没した経済学者、青木昌彦の比較制度分析については、奥野正寛との共編著『経済システムの比較制度分析』など専門書ではあるが比較的読みやすい本が既にあり、小池和男『仕事の経済学』の知的熟練論もまた比較制度分析の枠組みの中で捉える見方があるなど、広く世に知られ、かつ様々な分野に応用されている。この本も比較制度分析を主たる対象としつつ、一部において青木昌彦という経済学者自身にも迫る内容となっている。前半は比較制度分析の学び方、考え方に関する対談、講演等からなり、後半はその応用として、中国経済の歴史分析などが取り上げられる。

本稿ではまず前半の、特に第2章の制度分析入門を中心にその概要をみることとしたい。比較制度分析の「前史」として新制度学派をみるとき、ダグラス・ノースのほか取引費用理論のロナルド・コース、オリバー・ウィリアムソン*1といった名前が浮かぶ。本書ではその代表的な経済学者としてノースを上げ、著者の考え方との違いを述べる中で、ノースは制度は法とインフォーマルな慣習からなると考えるが、法は政治という市場経済の外から外生的に与えられるとする一方、慣習の成立は説明しないままになっていると指摘している。これに対し比較制度分析では、人間は「相手は自分の行動に対してどういう反応を示すだろうか」ということを予想しながら行動するわけであるから、人間社会はすべて(内生的にそのルールが生じる)ゲームとして類推できるとし、そうした見方の起源としてアダム・スミスの『道徳感情論』を上げている。

このように比較制度分析では、慣習のみならず法についても内生的なゲームのルールとして生じるとみるが、その事例として、日本のいわゆる「終身雇用制」が取り上げられる。

日本の終身雇用制も、もともとは法律で定められたものではありませんでした。現在、経営者が労働者のクビを恣意的に切れば、裁判所は不当な解雇であるという判断を下すでしょう。しかし、そういう法律があらかじめ存在していたわけでありません。むしろそういうルールが自ずと発展し、雇用者は勝手にクビを切れないと労働者は予想し、それから雇う方も、労働者がいったん企業なり役所なりに就職したらおそらく一生そこで勤めあげようと望んでいるとの想定のもとに慎重に採用する、そういう状態が終身雇用制を制度たらしめたわけで、法はそれをいわば事後的に追認したという面があります。

国家形態は、政治や経済、組織など様々なドメインの均衡状態として考える。それぞれのドメインでは、例えば組織における階層型、シリコンバレー型など複数の均衡状態が成立し得るが、そうした中からどの均衡状態が選ばれるのかは、それぞれのドメインに成立する制度は相互補強関係にあるという「制度的補完性」の概念から説明される。ただし、「なぜ日本には日本型の均衡が生まれ、アメリカにはアメリカ型の均衡が生まれるのか」という問いにゲーム理論の内部から答えることはできない。

こうして成立した制度は、法や政策で簡単に変えられるものではない。著者は日本の制度について、その根幹に終身雇用制があり、その他の制度はそれによって補強される関係にあるとみているが、それを創り直すには一世代、30年はかかるとする。日本は現在、「移りゆく30年」の過程の中にある。シュンペーターイノベーションを「生産過程における資本や労働、あるいは中間生産物などの生産要素の結合(の仕方)を新結合すること」と定義しているが、そうした現象の一つとしてシリコンバレー現象を考えることができる。シリコンバレー現象を説明する「モジュール化」(クラーク=ボールドウィン)の進行は、従来の階層型組織とは異なる形で不確実性に対処し、企業家の競争を引き出すことを可能にする。日本においても、社会に埋め込まれた様々な関係がダイナミックに働き(グラノベッターによって概念化された「社会的埋め込み」)、古い結合の創造的破壊と新結合によって新しい制度が産まれる過程にあるというのが著者の見立てである。

「複線型」雇用システムの可能性

以上、おもに本書の前半部分を中心に整理してみた。本書では、アメリカにおいてIBMから技術者が流れシリコンバレーの発展を導いた現象をシュンペーターイノベーションとして好意的に取り上げ、不確実性が高まり「モジュール化」が進む技術的特性の中では、日本においてもイノベーションは避け難いものとみる。また、本書の後半(第3章)では、マクロ経済的な視点からも日本経済の移行過程が論じられる。

こうした見方は、確かにエレクトロニクス産業ではよく当てはまると考えられる。「モジュール化」により中間製品のコモディティー化が進むエレクトロニクス産業では、生産過程における取引費用が低下し、垂直的統合を行うことの利点が失われ、企業内あるいは企業間での分業が進む。しかしその一方で、自動車産業など「すり合わせ」の領域がまだ大きい産業分野もある。こうした場合、垂直的統合の優位性は失われておらず、長期雇用システムも優位性が保たれる。

こうした産業別の特性の違いが「移行過程」ゆえに生じているものなのかは判断することが難しい。日本の典型的な雇用システムは、これまで、その入口が新卒者の定期採用に限られ、それが下位の職務を形成し、上位の職務は昇進・配置転換により内部から補充される内部労働市場を特徴とするとされ、その中で、企業特殊熟練を計画的OJTにより形成してきたとされる。しかし「モジュール化」が進むことで生産過程における取引費用が低くなると、一般的な職業訓練や職種別の外部労働市場等の強みも増すことになるだろう。

このことは、長期雇用と失業なき労働移動双方の顔を持つ「複線型」雇用システムという考え方にもリアリティを与える。「モジュール化」が進めば、「複線型」雇用システムを可能にしない限り、多くの工程は長期雇用システムとの制度的補完性を確保することができなくなる。一方「すり合わせ」の領域は内部労働市場との制度的補完性が高く、垂直的統合による生産体制が維持される場合には、引き続き長期雇用は主流の位置を占める。果たしてこうした「複線型」システムはどのような形で可能になるのか、あるいはそれは均衡状態としては成立し難いものなのか、後者であれば今後、特定産業における日本の優位性にも影響を与えることになるだろう。

*1:ウィリアムソンの『市場と企業組織』については、本ブログでも4回にわたってエントリーを上げたことがある:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20120721/1342840690 など。

濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』

 長期雇用と年功賃金をベースに持つ日本的雇用慣行については、賃金水準と仕事のパフォーマンスが年齢が上がるごとにしだいに乖離し、特に中高年の雇用が定年まで保障されることで、本来は雇用されるべき若年者の雇用の場を不当に狭めているとの批判が一部の経済学者や若者論者を中心になされる。その一方で、内部労働市場論から派生した知的熟練論は、年功賃金は知的熟練の向上度に基づき合理的に決められるものだと主張する。本書は、労働政策の実務家的視点から、上述のような理論中心の議論を一刀両断とし、社会政策論と軌を一にする労働政策論を持ち込むことで、現在の「メンバーシップ」を基本とする雇用システムを「ジョブ型」に作り替えることを提唱する。著者はこれまで『新しい労働社会』、『日本の雇用と労働法』、『若者と労働』という3つの新書で、それぞれ違った切り口から、避け難く進行する少子・高齢社会の中での欧米の議論とも平仄の取れた労働政策の在り方や、多様化する雇用契約と働き方が広がる中での「ジョブ型」労働社会を提唱している。本書もまたその意味では同様であるが、特に「メンバーシップ型」雇用システムの中での中高年の問題に焦点を当てている。 

 本書の刊行は2014年5月、雇用情勢の改善が始まってから1年以上経過した時期であるが、その2年前は東日本大震災の後遺症も残る中、円高により、地方の製造現場を中心に雇用調整の動きが広がった。このように一見雇用の安定に寄与している日本的雇用慣行の中で、「運悪くこぼれ落ちた者が著しく不利益をこうむってしまうような構造自体に着目し、その人々の再挑戦がやりやすくなるためにはどのようにしていったらいいのか」という視点の重要性を著者は指摘する。知的熟練論では、不況期に中高年を標的として行われるリストラは技能を浪費しており大きな損失だと指摘されるが、これに対し著者は、日本企業が知的熟練論に従って人事管理をしているのであればこのような事態は生じないはずで、「小池(和男)氏よりも日本企業の方が冷静に労働者の価値を判断しているからこそ、中高年リストラが絶えず、高齢者雇用が問題になり続けるのではないでしょうか」と手厳しい。加えて、内部労働市場論が一般化したことの功罪として、雇用政策の中から中高年の視点が消え、高齢者対策は定年延長と継続雇用に焦点が絞られ、年齢差別禁止法制の試みはほとんど議論されず消え失せたことを上げる。こうした指摘から、著者自身の、これまでの(雇用維持を主眼とする)労働政策が前提としてきた雇用システム論からの決別を読み取るとすれば、少々大袈裟であろうか。

 また中高年の雇用問題を考える上で、定年制や雇用保障と併せて避けては通れない問題に成果主義の広がりがある。本書では、かつての職能資格制度の下での能力主義や欧米型の職務給と、日本の成果主義との違いについて、明確かつ簡潔に記述している。まず、賃金決定における年齢や勤続年数といった要素は明確に否定され、職能資格制度における能力評価基準が主として潜在的能力であったのに対し、成果主義では成果や業績という形で現れた経済的能力を意味するようになった。また、短期的な観点から労働者の市場現在価値が重視され、査定結果は累積されない(洗い替え方式)。*1
 こうした賃金制度は、すでに多くの職場に浸透していると考えられる。またこれは、雇用情勢がこのところ稀にみる改善傾向にあり、パート労働者の時給や新卒者の初任給は改善傾向にある中、なぜか平均賃金は停滞を続けているという現下の情勢にも影響を与えているだろう。平均賃金が停滞している理由についての教科書的な回答は、雇用情勢がまだ完全雇用に達していないため、というものであるが、一方で雇用の入口における賃金は明らかに上昇している。雇用情勢が改善する中、中高年の雇用問題もいまは目立つ形では現れてはいないが、賃金問題としては底流にあり、見えない形で家計から法人企業への所得の移転をもたらしているようにも感じられる。

 ところで、知的熟練論が指摘する日本的雇用慣行の合理性が正しいものであるかどうかは、日本的雇用慣行の維持可能性の如何に直接的につながるものではない。中高年の仕事のパフォーマンスが仮に賃金に見合うものでなかったとしても、長期的な契約の仕組みとして合理的なものだとする説明は、生命保険の仕組みとの類推から可能である。もし生命保険の保険料が本来の死亡リスクに見合うものだとすれば、年齢が上がるに従い保険料も上がらなければならない。しかし、今のほとんどの生命保険に取り入れられている平準保険料方式*2 では、年齢に拘わらず一定の保険料となる。同様の考え方で、日本の長期雇用と年功賃金は、若い時の賃金を仕事のパフォーマンスに比して低くし、その差額を長期的に積み立てることで、中高年期の賃金水準を維持する仕組みだとみなすことができる。 
 ただし、そのようにみなせることの前提として、法人企業は若い労働者に本来支払うべき仕事のパフォーマンスと賃金との差額を基金として積み立てていると擬制し、その分を家計に帰属する賃金とみなす必要がある。実際、多くの労働者はこうした「暗黙の契約」の存在を前提に生活設計を行っているものと考えられる。併せて、マクロ経済のパフォーマンスが安定していることが重要で、さもなくば保険契約の逆ザヤ問題と同様、法人企業は年功賃金契約に係る負債を抱え込むことになる。
 なお、実際には法人企業はそのような基金を積み立てているわけではなく、むしろ、労働者構成に長期的に変化がなく、若い労働者から中高年労働者への賃金の移転が長期的に維持可能な形で確保されていたがために、ある時期までは日本的雇用慣行の問題は顕在化しなかったと考える方が自然である。いいかえれば、「暗黙の契約」の存在は所詮擬制に過ぎず、使用者と労働者の認識には、もともと相互に齟齬があったということなのだろう。また、いずれにしてもその仕組みが維持可能であるためにはマクロ経済の安定が前提であり、知的熟練論が妥当性をもって広がったことの背景には、高度経済成長期から安定成長期にかけての高い経済成長があったと考えるべきだろう。
 一方で、少子・高齢化や高学歴化、経済の低成長が続く現在においては、日本的雇用慣行の維持可能性に疑義が生じており、非正規雇用問題などもその延長線上にある。そうした文脈の中において、本書が最後に提唱するような「ジョブ型労働社会」という社会制度も説得力を持つものとなる。しかしそれは同時に、これまでは顕在化することのなかった「労働力の再生産」のための費用(家計の生計費や育児・教育費等)を誰が負担するのかという問題も招来することになる。これを欧米型社会システムがそうであるように国家が担うとしても、その結論を導くまでには多くの政治的資源を費やすことになる。このことは昨今の消費税をめぐる喧騒をみていても明らかであろう。むしろ、より安定的なマクロ経済のもと、現在の日本的雇用慣行を維持することの方がよりコストが少ないのではないか、との見方ももう一方の考え方としてあり得るものである。

*1:もちろん、本書では明確に記述されていないが、職階(部長、課長等)ごとに能力評価基準は異なり、いったん上がった職位はそうそう下がるものではないことを考えると、職階を通じた査定の累積はあり得るだろう。

*2:http://www.seiho-hitsuyou.com/266

稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』

本書の概要

 ピケティ『21世紀の資本』には、経済学における「不平等」をめぐる歴史の中で、いかなる意味で新しさ、ないしオリジナリティがあるのか──この本では、資本主義的市場経済における不平等に関する理論の歴史が俯瞰され、それを経ることで(特に、著者のいう「不平等ルネサンス」との違いが明らかになる中で)、読者はそれを知ることができるようになる。
 話は、ルソー『人間不平等起源論』とスミス『国富論』における見解の違いをみることから始まる。ルソーによれば、私的所有権制度の確立と分業の発展が、社会の不平等化の基本的な原因である。スミスはその点に大きな異議を持たないが、それ以上に、それらが生産力ひいては生活水準の上昇につながることを重視する。著者はその中に、「成長か格差是正か」という今日にもつながる論争の原型をみる。(なお、話を先取りすると、ピケティの議論においては、成長率が資本収益率を超えることで格差は抑制される。)
 スミス、マルクスなど古典派経済学の時代、普通の商品のみならず労働、資本、土地までもが市場メカニズムの下に置かれるようになると、不平等を生み出す中心的なメカニズムは資本蓄積、経済成長となる。また、理論の中心は「生産」であり、資本蓄積を行う主体は資本家に限られ、労働者と資本家の格差は開く一方と考える。一方、新古典派経済学では「取引」が中心であり、取引が生産を引き起こすと考える。古典派は「富」の所有が階級の違いを作ると考えるが、新古典派はそれは程度の問題と考え、不連続的な階級の違いを作り出すものとはみなさない。さらに資本の収穫逓減から、長期的には、最適な資本労働比率(資本の限界生産性が主観的割引率に一致する地点)が達成されるとする。このような新古典派の見方は、結果として成長と分配問題への関心を低下させる。
 著者のいう「不平等ルネサンス」──マクロ経済成長論の中での成長と分配問題への関心の復活は、クズネッツの「逆U字曲線」──経済成長の初期には成長とともに分配は不平等化するが、国が豊かになるとその傾向は逆転し、成長とともに分配は平等化するという経験則に対し、90年代以降、それとは異なる事象が目立つようになる中で勃興する。さらに、「不平等ルネサンス」においては、新古典派が⽣産問題と分配問題を分離し⽣産問題に関⼼を集中させる向きを持つのに対し、分配パターンが⽣産と資本蓄積・経済成⻑に影響を与える可能性が主張される。
 クズネッツの「逆U字曲線」が示唆するように、市場経済には平等化の力が備わっているのか、あるいはそこまではいえずとも、市場経済の中で発生する不平等は他の不平等化の力と比較して大したものではないといい得るのか――著者は、この「完全競争市場において、分配は平等化するのかしないのか」の問題について、未だベンチマークがはっきりしていないと指摘する。その上で、ラムゼイモデルと世代重複モデルという比較的一般的なマクロモデルに基づき、資本市場、内生的な技術革新の有無別に、初期における経済的不平等が動的にどのような経緯をたどるかを確認する。その結果、「資本市場が完備なラムゼイモデル」を除き、モデル経済は格差のない状態へと収束することがわかる。これらの結果を踏まえると、分配問題の処方箋としては、市場に介入する財政的再分配よりも資本市場の整備の方に優位性があるとの結論も導き得るが、一方で、国内レベル格差をみる上でより適切といえる世代重複モデルでは、資本市場がない場合には収束が遅れ、最終的な所得・富の水準が低くなる。さらに内生的な技術革新があり、資本市場がない場合は、資本の限界生産性が主観的割引率と一致することがなく、定常状態においても初期の不平等が解消されず持続することもある。
 「不平等ルネサンス」の理論家は、財政的再分配の必要性、特に人的資本の公的供給の必要性を指摘する。それは、これらの理論家が重視しているのは労働所得の格差であり、資本の所有に基づく格差を二次的なものとみなしているためである。人的資本には強い不確実性と外部性があり、完備な市場を構築することが困難であるため、公共的な政策が求められる。こうした「不平等ルネサンス」の立場とピケティの違いは、つぎのようなものである。

  • ピケティは、人的資本の格差よりも物的資本の格差を重視している。
  • 「不平等ルネサンス」は必ずしも「クズネッツ曲線」的な市場観に見直しを迫るものではないが、ピケティの立場は大きな見直しを迫るものであり、所得格差拡大の要因として技術革新よりも政治的な力学を重視している。
  • インフレ下における資産減価、債務者への所得移転は格差を縮小させることから、ピケティは、20世紀におけるインフレーションの拡大を重視している。

 ピケティのいう「r>g」は理論的に必然的な法則ではなく、経験的にみられる傾向である。「不平等ルネサンス」の理論家がいうように、資本所有の格差が縮小し人的資本の寄与度が高まれば、「r>g」であっても格差が強まるとは限らない。だが、ピケティの実証研究はその可能性に疑問を投げかけるものである。

「資本」の捉え方

 以上ざっとではあるが、本書に沿って、「不平等ルネサンス」に至る経済的不平等をめぐる理論の歴史、そして「不平等ルネサンス」とピケティとの違いを中心にみてきたが、本書のところどころで取り上げられる資本と労働*1をめぐる議論には興味が引かれる。
 ピケティについては、⼈的資本が考慮されないことが主要な批判の⼀つとなっているが、いずれにしても物的資本と⼈的資本の間は必ずしも明確に線が引かれるものではなく、中間的な無形資本も存在し得る。例えば、企業の研究開発投資はそういったものであり、今後はそれが資本として計測されることになる*2。⼀⽅、⼈的資本投資は費⽤計上され、法⼈企業や家計の資本として計測されることはない。逆の⽴場からは、法⼈企業の教育訓練投資や家計の教育費負担も⼈的資本として計測すべきとの議論が成り⽴ち得る。ピケティの議論では、⼈的資本は物的資本に付随して価値をなすものとされるが、計測され得る資本の中にも企業の研究開発投資のように同様の性格を持つものがある。そうした中で、経済的不平等を語る上で適切な「資本」とは何か、それはどのように計測し得るのかという点は、引き続き、オープンな議論のように思える。
 加えて、本書を読みつつ考えた点をいくつか指摘すると、近年の⽇本では、法⼈企業の内部留保が増加し貯蓄が増えている。いいかえれば、法⼈企業の資本の保有が⾼まる⼀⽅、⻑期的にみれば、⾦融市場における借り⼿としての性格は明らかに弱まっている。その⼀⽅で、家計の貯蓄率は低下傾向である。こうした動きは、インフレの経済的格差に与える影響にも変化をもたらす可能性がある。
 しかしこれらはいずれもフローの計測に基づく議論である。⼀⽅、ピケティが重視する資本の格差は、むしろストック⾯の格差を意味している。⽇本においては、ストック統計を利⽤した議論をあまり⾒かけることがなく、その背景には、資産調査を実施することの難しさがある。ピケティは税務統計を活⽤し実証的な分析を⾏っており、⽇本においても、ストック⾯の分析という観点から、税務統計を活⽤できる可能性がある。

*1:マルクス経済学や日本の社会政策論の中での労働に関する理論の歴史についての記述は、本書の中でもかなり重要な位置を占めているが、本稿では省略している(人的資本についても同様)。

*2:http://www.nikkei.com/article/DGXLZO91976040Q5A920C1NN1000/

真の失業率──2016年6月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

6⽉の完全失業率(季節調整値)は3.1%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も3.3%と前年同月から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。なお、インフレ率が低下する中で完全失業率は改善していることから、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きとなっている。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する5⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降、これまでの増加傾向から一転して減少に転じている。

その原因を素直に判断すれば、フルタイム労働者の所定内給与が伸び悩んでいることから、本年度の春闘におけるベースアップが低かったためということになる*1。ただしこれについては、新卒を含むフルタイム労働者の増加が続いており、相対的に賃金水準の低い雇用者の割合が高まったためとの見方もある*2

 最後に、今回は貿易サービス収支と名目実効為替レートの関係をみておきたい。

グラフからわかるように、リーマン・ショック後の時期を除いて長期的にみると、為替レートは貿易サービス収支に連動し、いわば内外経済の価格調整メカニズムの役割を果たすように動いている。よって現下の円高傾向は貿易サービス収支のプラス傾向と連動したものであり、金融政策が中立である限り、当面、その傾向は変わらないようにみえる。円高は輸入物価の下落を通じ消費者物価に下押し圧力として働くため、このところの物価の停滞は、しばらくは変わらないとの見方ができそうである。
 このことはいずれにせよ、日銀の金融政策目標が実体経済へ浸透する上での障害になるだろう。一方、このところの日銀は家計調査と異なる個人消費の指標をつくる等*3、まるで金融政策の効果が上がらないことを統計のせいにしようとしているようにもみえる。このような姑息な対応をしているようでは、組織として、各種経済主体のインフレ予想に影響し今後の経済動向を左右する目標を設定することは、もはや不可能なのではないだろうか。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:連合の集計結果によれば、昨年度と比較可能な組合について、賃金引上げ率のうち定昇相当分を除く分(賃上げ分)は本年度0.32%増と昨年度の実績(0.56%増)を下回る。:http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/shuntou/2016/press_release/press_release_20160705.pdf?0706

*2:https://twitter.com/m_takaharasan/status/756339411441192961

*3:http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS02H5Z_S6A500C1EE8000/

真の失業率──2016年5月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで、完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

5月の完全失業率(季節調整値)は3.2%と前年同月と同水準となったが、真の失業率は3.4%と前月からさらに0.1%低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である 。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する4月までの結果は以下のようになる。物価と賃金は本来の相関関係とは逆向きに、物価が停滞する中で賃金が上昇していたが、4月は単月的な動きとして、賃金は大きく停滞した。

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