私事だが、自分の周囲にはかなり似通った形で「経済学」批判を試みる徒が多く、その手の批判は、きまって「経済学者は、理論と現実が異なる場合に、現実をおかしいというが、それは間違っている。」(意訳)といった形をとることが多い。そういう類には、微笑でかわす、というのが適切な対応であるが、時に息巻く輩もいて、「現代の経済学は、過度に精緻な計量モデルを求めるだけで、現実に意味をなすような理念を持たない」(意訳)などと言い出す始末。そんな場合も、(下手に反論して非生産的にも自分の時間をつぶすのと比べれば、)微笑でかわす方を選ぶわけであるが、仕舞いには、呆れる気分に苛まれることもあり。(そな、科学的手法も採らずにでてくる「理念」ちゃいったい何なんだと!)
勿論、この世には、ケインズの理論とシカゴ派的な新古典派経済学しかない、というのであれば、後者に対する批判として、上記のような言い振りも一定の正当性を持ちうるかも知れない。(というよりも、上記のような批判をしたり、それに同調したりする輩にとっての経済学とは、その程度なのかも知れない。)ところが、現代には、ケインズ的な含意が組み込まれたモデルによって語ろうとするニュー・ケインジアン経済学みたいなものもあるし、行動経済学のようなアプローチの仕方もある。つまり、経済学は現実を語るに足るモデルの構築を追求し続けているわけで、未だに上記のような物言いに納得しているとしたら、それは不勉強の誹りを免れ得ないだろう。
といったことを、日々一考(ver2.0)経由で田中先生の書評『岩波現代 経済学事典』(伊東光晴編、岩波書店)を読み、思い出したので書いてみた。