備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

重田園江『ホモ・エコノミクス-「利己的人間」の思想史』

 2022年3月刊。ホモ・エコノミクスとは「合理的経済人」、すなわち自らの経済的・金銭的利得を第一に考えて行動し、あらゆる情報を考慮し、計算を間違えず、自らの選好を熟知し周囲に流されず、常に合理的に行動する人間像を意味する。経済学では、個人から出発し社会を考える方法論的個人主義に立脚し、社会的選択や意思決定は、ホモ・エコノミクスで構成される社会を前提に行われるとする。このような経済学への批判の一つとして、ホモ・エコノミクスの非現実性がある。本書も同様な批判的視点から、ホモ・エコノミクスの歴史を辿る。

ホモ・エコノミクスの系譜学

 本書は3部構成であり、第1部では富と徳の関係性に係る変遷を、ウェーバー、マンデヴィルとハチスン、ヒューム、アダム・スミスを経由し、「金持ち」が美徳と見做されるに至った経緯を辿る。ウェーバーについては、通常、プロテスタンティズムの禁欲が貯蓄、そして投資へとつながり、このことが資本主義の正義と適合することを指摘したとされるが、本書はこの経路を重視せず、あとがきでは、(グレーバー&ウェングロー”The Dawn of Everything”を基に)ウェーバーの「禁欲」資本主義が資本主義の「原罪」を忘却させた、とも記述する。また、近年の「公正世界仮説」(メルヴィン・ラーナー)という立場を取り上げ、富と徳が両立するとの見方は遠い過去の話ではないとする。
 第2部では、まずホモ・エコノミクスの出自を、J・S・ミルとイギリス初期の経済学者らとの議論の中に見出す。そしてメンガージェヴォンズワルラスらが物理学の数学を経済学に取り入れる経緯(限界革命)を確認する。シュモラーら歴史学派のメンガーへの批判(ホモ・エコノミクス批判)の中には、現代の経済学批判にもつながる要素がある。また、これに対するメンガーの回答は、自然科学の例を基に「理論が、根本的で一般的な現象を明確にするために取り入れる理想化」であるとするもので、これもまた、経済学の理論は現実の「一次近似」であるとする現代の見方とも通じている。同時に著者は、社会統計を重視したのはむしろ歴史学派であり、メンガーらの理論派は「そもそも数字をあまり使わない」と指摘する。
 第3部ではホモ・エコノミクスの拡張使用として、ベッカー、シュルツら「シカゴ学派第二世代」、ブキャナンら公共選択論の経済学者などを追う。ベッカーの人的資本論では、「労働力」を均質な費用項目とせず、教育訓練投資や福利厚生によって期待収益率を高める「資本」であると見做す。この理論は使用者だけでなく労働者の利益にもつながる可能性を持つが、著者は音楽教育や日本の大学改革を例示し、「人的資本論はかなりグロテスクな理論に見える」と言い切る。一方で公共選択論の「オーバーロード」説は、いわゆるリーマン・ショック以前、2000年代前半までの政治不信、官僚批判にも通じるが、その結果が「官僚志望者はどんどん減り、公僕としての徳は失われていく一方」という現代につながるとの見方は、その通りと思う。

「科学」としての装い

 現在において、ホモ・エコノミクス批判はありふれている。本書の著者も、ゲーム理論、社会的選択理論、行動経済学厚生経済学など多くの領域で修正されたホモ・エコノミクス像が導入されていることは踏まえている。しかしそれでもホモ・エコノミクスはしぶとく生き残り、そのようにあることを我々に随所で強制するとみる。
 本稿の筆者としては、現実の「一次近似」としてのホモ・エコノミクスの有効性・有用性は受け入れるが、例えば摩擦のない価格の自動調整機能など、それを前提とすることが理論化を容易にすることもあり、理論化を容易にするためだけにホモ・エコノミクスの前提が用いられる、という側面もあるのではないかと考える。かくも「科学」としての装いを持つことは、経済学にとって魅力あるものである。その場合、理想的な理論を創り上げるため、理論の前提を思考停止し議論を進めるのであれば、不誠実との誹りは免れない。
 現在は「理論に現実を合わせるべき」と考えるような極端な向きは少なくなり、経済学的な政策研究の流行も、リサーチデザインを重視した因果推論など現実の統計データを用いた実証研究が中心である。その一方で「P値が0.05を下回る」ことに血眼になる者もいないわけではなく*1、その意味では、経済学批判もまた別の形で生き残る、と考えられる。

*1:通常の場合、サンプルサイズが大きくなればP値は下がる。