非常に今更感はあるのですが、「一部門、固定係数生産関数による日本経済の現状の分析の試み(その1、その2)」(労働、社会問題)*1において指摘していないこのモデルの重要な特性は、「労働力の再生産」、つまり出生・死亡を通じた(労働力)人口の変動が経済モデルの中で明示的に組み込まれていることですね。人口減少社会の中では、こうした特性を持つモデルの構築は、もしかしたら、結構重要なポイントなのかもしれない、と今更ながら思っているわけです。(ここでは、ハロッド・ドーマー型の生産関数を用いた試み、という点が強調されていますが、必ずしもそれに拘らないモデル構築も可能かもしれない。)
このモデルでは、総需要が出生に影響を及ぼすが、これは現実にも妥当する。例えば、近年の若年層での非正規雇用の拡大・低所得層の構成比の高まりは、これらの層の婚姻が困難になることを通じて出生率にも負の影響を与えている。逆に、総需要が拡大し労働需要が増加すれば、これらの層の期待所得を高めることで婚姻数を増加させ、出生率にプラスの効果を与える。
このようなモデルを通じた議論は、経済学と社会政策論の間のギャップを繋ぐものになるかもしれない。経済モデルに基づく科学的議論の観点からみると、社会政策論の中の「べき論」には科学的根拠がみあたらない。これがひいては、パターナリズム批判にも結びつく。一方、経済モデルの「仮定」に対する批判は、単純化されたモデルによる分析の有用性をも不当に疎外してしまう。このような齟齬というか議論の噛み合わなさにはうんざりするが、こうしたちょっとした努力で日々の不毛な議論を幾分でも改善する余地があるのかもしれない。例えば、「生活全般の改善、充実を図るためには、経済成長いらね」といったような議論の不毛さも、こうした工夫でよりわかりやすくなるかも。*2
(追記)備忘録としてのメモ。古典派と新古典派の違いは、前者が労働価値=価格との考え方をとるのに対し、後者は限界効用=価格との考え方をとる点。後者は、市場の均衡を重視するという意味において市場主義的であるが、前者の労働価値説の観点に立てば、価値の源泉を市場の均衡に置くのではなく、本モデルに適用されているような「労働力の再生産」に置くことも可能である。つまり、市場競争によって全ての価値が決まるべきではなく、物(商品)には普遍的な価値が宿り、それをもって人間の生命の循環が維持され得るとの見方。「フェア・トレード」や「スロー・ライフ」といった考え方も、これに繋がるもののように思う。また、この様な考え方から「市場原理主義」を批判する向きには、人口減少社会という現実は追い風となる。「市場原理主義」を批判する向きとしては、格差の存在や、マクロ的な観点(ケインズ失業)から入るのが王道のようにも思われるが、仮にこのような体裁をとったとしても、その底流に、このような(ある意味マルクス的とも言える)物の見方が潜んでいる場合もある。