※コメントいただいた点について、随時修正を行います。
いま、猪木武徳「戦後世界経済史」を読んでいるのですが、はしがきに次のような記述がありました。
滞っていた本書の執筆に踏み切れたのは、中央公論新社の新書編集部の高橋真理子さんに「構成目次」をお渡ししてから七年の歳月が流れてしまったことにわれながら驚いたこと、昨年秋に偶然手にした米国の経済学者、ベンジャミン・フリードマン(Benjamin F.Friedman)のThe Moral Consequence of Economic Growth(Alfred A.Knopf, 2005)を読んで大きな刺激を受けたことが影響した。同書は、今時の金融危機の発生以前に書かれているが、経済成長とモラルの関係を取り上げており、経済学が、法学や倫理学、道徳哲学から枝分かれした学問であることを改めて想い起こさせてくれた。
- 作者: 猪木武徳
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/05/01
- メディア: 新書
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ここにでてくるベンジャミン・フリードマンの著作は、まだ日本語訳にはなっていないようですが、数年前に、スティグリッツが同書の書評を書いていたことを思い出しました。
- ジョセフ・スティグリッツ「倫理的なエコノミスト」(Foreign Affairs 11-12/2005)
今回の英語練習では、これを題材に取り上げます。*1
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倫理的なエコノミスト
ジョセフ・スティグリッツ
成長は全てだが、唯一ではない
エコノミストは、長いあいだ、成長に対する生まれながらの支持層であった。富裕国においてすら資源が限られるようになっていらい、エコノミストの中心的課題は選択[choice]だ:我々は、富裕層の減税か、またはインフラや研究開発への投資か、イラク戦争か、または発展途上国や自国の貧困層に対する援助か、のどちらに資金を供給すべきだろうか。より全体的に資源を提供することで、理論上、成長はこれらの選択の痛みを小さくしてくれるはずである。
しかしながら、米国は、成長が供給を拡大する間、それは野心をも引き上げるものであることを行動によって力強く示してきた。富裕国がしなければならない選択は、それゆえ、たとえ貧困者の場合のトレード・オフがより心を痛めるものであったとしても、貧困に直面する国々の選択よりも簡単なものではないようにみえる。例えば、ブラジルは、限られた医療予算を、AIDS薬品に市場価格で支払うか(その結果、一部のAIDS患者は生き残り、他の医療を必要とする人々は死ぬ。なぜなら、彼らの必要に支払うことができたであろう金は、単純にそこにはない)、選択しなければならない。より多くの成長が提供する資源は、この瞬間、生と死の間の違いを意味することになる。
いまだに、成長は批判され続けている。数ある中でも、環境と貧困に対する成長の衝撃に関する、一般大衆向けの成長批判的文献は、広く展開している。その主たる仕事の中で、ベンジャミン・フリードマン「経済成長の倫理的帰結[The Moral Consequences of Economic Growth]」は、こうした批判を取り上げ、成長とは、明らかな経済的利益だけでなく、道徳的利益[moral benefit]をも同様に持つものであると位置づけた。彼は、成長は環境を改善し、貧困を軽減し、民主主義を促し、より開かれた寛容な社会を目指すものだと議論している。しかし、ハーバード大学の経済学教授であるフリードマンを、単に、市場経済のうぶなチアリーダーであるといったらそれは言い過ぎだろう。彼のメッセージは、微妙な含意を持ち(ある観点では、私が望むような含意を持つものではないにしても)、また成長は常に約束された利益をもたらすものではないことを彼は認識している。市場経済は、自動的には、成長、社会正義、または経済的効率すらも保証するものではなく、これらの目的を達成するために、政府が重要な役割を演じることを要求されるのだ。
成長するがままに
歴史的に、エコノミストは、少なくとも経済発展の初期段階では、成長はより広い平等やよりよい環境などの社会的善にともなわれるものなのと問うてきた。ノーベル経済学賞受賞者であるサイモン・クズネッツは、第二次世界大戦以前の経験にもとづいて、経済発展の初期段階では不平等の拡大がみられることを議論している。別のノーベル経済学賞受賞者であるアーサー・ルイスは、さらに議論を進めた:大きな不平等は、成長が必要とする貯蓄を作り出すと彼は議論した。その後の世代のエコノミストは、環境のクズネッツ・カーブの存在を仮定した:経済成長の初期段階は、環境改善ではなく、環境劣化の原因となる。
クズネッツとその門下生は、成長は、最終的に、より大きな社会的正義(より大きな平等と、より小さな貧困)と、よりよい環境をもたらすとの見通しを提供した。しかし、そのことについての必然性は何もない──つまりそれは、たとえ過去において真実であったとしても、未来においてはそうではないだろうことを意味する。不平等度は、米国では大恐慌の後に低下しているようであるが、過去30年間に、著しく上昇した。多くの形の公害が、富裕国が大気汚染問題に心を向けるようになるにつれ、改善しているが、温室効果ガスの排出──地球温暖化を引き起こすあらゆる危険とともに──は、経済成長とともに、特に米国において増加している。
フリードマンは、特に、外部性[externalities]──ある経済主体の行動が、他の経済主体の結果となり、行為者はそれに対価を支払わないが支払われない(負の外部性)、または、そのそれによって対価を受けない(正の外部性)──の重要性を強調する。ほとんど全員がこれら「市場の失敗」(市場が自力では効率的な結果を生むことができない場合)と、それがとりわけ環境を傷つけるという含意を認識している。米国の排出する温室効果ガスが、他の地域──特に、そう遠くない未来に水浸しになるであろう低地の島々──に、驚くようなコストを押しつけるが、米国の企業や消費者は、そのコストを支払うことはない。こうした市場の失敗を正すことは、石油生産を増やす石油会社に補助金を要求することではなくにはないが(その方向には市場の失敗はない)、より節約すること保全を要求する。*2しかし、外部性は、より一般的な議論を含意する:もし成長が、個人や企業それぞれによって争奪されるものを超えた、ベースの広い社会的利益であるならば、成長を推進する政府の役割もある。
たとえ、それら広い社会的利益のうちのひとつがより開かれた寛容な社会であったとしても、フリードマンは、民主主義と成長との関係には2つの道がある:成長は民主主義に影響し、民主主義は成長に影響する、ことを慎重に説明する。この関係の双方の様相は複雑で、しばしば曖昧である。中国──特に民主的であったり、政治的に開かれているわけではない──は、過去四半世紀にわたって、最も早く持続的な成長を続けてきた。慣習的な知識では、民主主義は、より「大衆」に責任を持つようになるので、貧困者により注意を向けるようになると理解される。しかし中国では、ほかのほとんどの国以上に、貧困の削減を行ってきた。最近の期間をみると、米国では、実質家計所得の中位数は低下しているようであり、富裕層は、貧困率が上昇するにあわせて、大きな減税を享受している。
多くの成長支持者とは異なり、フリードマンは、問題なのは単に成長ではない、それを生じさせるのは政策である、ということを認識している。彼の仕事は、ゆえに、成長と貧困の削減、または成長とグローバル経済への統合などに関係する研究(例えば、少なくとも、Paul CollierとDavid Dollarによる世界銀行の著名な研究)に対して重要な批判を行う。ほとんどの部分で、政府が直面する政策判断は、成長するかしないか*3、統合するかしないか(政治家は、しばしばこのように過度に単純化しようとするものだとしても)である。問題はより特殊だ:関税を引き下げるか否か、資本市場を自由化するか否か、研究開発により投資を行うか否か、教育により費用を投じるか否か。そしてその回答は、あまり明確ではない。ある政策は、貧困を拡大するやり方で成長を促進させるだろうし、他の政策は、それを削減しながら成長を促進させるだろう。ある成長戦略は、環境に優しいだろうが、他の政策は、そうではないかも知れない。
要するに、成長に賛成するか、反対するかに議論の中心がおかれるべきではない。問われるべきなのは、モラル成長──持続的で、現在だけでなく将来の生活水準を向上し、より寛容で開かれた社会に導くような成長──とよぶべきものを促進する政策はあるのか、である。同様に、できることは、成長の利益が平等に分配され、ハリケーン・カトリーナの余波の下にあるニュー・オリンズにおいて明らかになった深い割れ目・裂け目のようなものよりも、社会的正義や連帯のある社会を創り上げることを確保することだ。
問題は、国際比較分析から得られる利用可能な実証的事実のほとんどは、それほど参考にならないことである。フリードマンの仕事は、成長と貧困の削減や環境の質のあいだの潜在的なトレード・オフに関する、よりミクロ・レベルで事例に基づく世界銀行の研究からのrecent callの重要な反復を提供している。
所得の総取り賞金[sweepstakes]
フリードマンは、読む人を楽しませる幅広いトピックをカバーする彼の本を、米国が彼のビジョンであるモラル成長を追うための、ある種の政策についての分析で締めくくる。この議論は、楽観的であると同時に、悲観的である。政策は、明らかに我々の手のうちにある。だが、それは米国が近年追い求めてきた政策──それは二重の不幸な結末、息詰まる成長(ほどんどの損失は将来の結果となる)と、大きな社会的不正義を記録する社会の創出につながった──とは、ほど遠いものだ。
発展途上国では、米国は大きな成長の賞金[sweepstakes]──GDPだけに焦点を当てれば、そうみなせるだろう──を勝ち取ってきた。しかしながら、GDP統計では、読み誤ることが可能である。それは、国がどれだけよくやっているか、市民がどれだけ裕福になったのかを本当に計測しているわけではない。
どれだけよくやっているかをみるために、会社の収入だけをみる者は、誰もいないだろう。はるかによく関係するのは、資産と負債を示す貸借対照表である。それは、国についても同じである。アルゼンチンは、1990年代初頭に急速に成長したが、主として、それは海外からの過度の借入による巨額の消費の結果であった。しかし、その成長は持続不可能であり、実際に持続しなかった。同様に、米国は、1日あたり20億ドルという割合で、海外からの巨額の借入を行ってきた。それが高生産性の投資に投じられているとすれば、それもひとつの事実だろう。実際は、それは消費の拡大と、米国の高所得層のための大きな減税に投じられてきた。
次の思考実験を熟慮せよ:もしあなたが生きるための国を選べるが、その国の所得分布のうちからランダムに所得が割り当てられるとすれば、1人あたりGDPが最も高い国を選ぶだろうか。否だ。最も適切な決定は、所得の中位数(50パーセントの人口がその下にあり、50パーセントの人口がその上にある所得の水準)によるものである。頂点にいる者の手にある富と所得の割合が増加し、所得分布の歪みが大きくなるにつれ、中位数は平均値よりも一層低くなる。それが、米国では、1人あたりGDPが増加し続けたにもかかわらず、米国の中位数に当たる世帯の所得が実際に低下していたことの理由である。
単に1人あたりGDPだけをみることを望まないであろう理由は、ほかにもある。人は、自分の安全を心配するだろう。病気になったら、何が起こるだろうか。仕事を失ったら。退職後には、何が起こるだろうか。犯罪も心配するだろう。子供たちの学校の質も心配だ。子供たちは、金で買うことのできる最高の学校に行く余裕のある者や、シンガポールのような最高水準の公共教育を提供する国の者と、どのように競争していけばいいのだろう。環境についても心配するだろう。政府の規制は、水中へのヒ素の流出を禁止しているだろうか。
これらのレンズを通してみると、米国は良くはみえない。ほかを凌ぐことに関しては、いくつかの次元がある──例えば、他の先進国よりも5〜10倍の人口1人あたりの刑務所収監者や、より長い週あたり労働時間を誇っている。また雇用保護は弱く、失業保険は粗悪であり、ほとんどの人は医療保険にカバーされていない。
アメリカン・ドリームがいまだ世界中の多くの人々を引きつけていることは、確かだろう。しかし、いくつかの魅力は、米国での上方移行性についての延々と続く神話や、貧困に直面したときの困難に対する認識の低さに基づくものである。また、米国と貧しい国の生活水準の比較はいまだにないとしても、それらは、人がそこにとどまろうと望むような栄誉ではない[these are not the laurels on which one wants to rest]。
(続く)