備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

格差が縮小する勤労者家計

 原油価格の下落等を背景に、このところ物価上昇率が縮小している。4月には消費税増税の効果も剥落し、物価は、夏に向けてマイナス転化するのではないかとの見通しもある*1。賃上げについても、経済理論的には、今年は昨年の消費増税分に目標インフレ率を加えた3〜4%程度のベースアップが必要となるところだが、実際のところほぼ不可能に近い。定昇を含めた春闘賃上げ率のベースで2〜3%というのがせいぜいであろう*2。だとすれば、ベースアップ分は1%未満であり、来年の所定内給与(パートを除く一般労働者ベース)も1%未満の上昇幅で推移すると思われる。パート比率が上昇しているため、全体の伸び幅はさらに小さくなる。
 これは見方を換えれば、労使交渉における期待インフレ率は、事実上マイナスだということを意味している(消費増税分を1〜2%と見込んだ場合)。日銀の物価目標である「2%」という数値は、労使交渉における期待インフレ率には織り込まれていない。経済主体は期待に応じて行動しているとするならば、労使交渉における期待インフレ率は1%前後のマイナスとみなせるのである。これではデフレ脱却はほど遠いと言わざるを得ない。

 こうした場合、中央銀行としてとるべき行動は追加緩和である。春闘賃上げの結果は、夏以降に公表される4月分以降の経済指標に徐々に織り込まれる。金融政策のタイムラグを考えれば、行動を起こすのが早いことに越したことはない。
 ところが、実際のところ、これには政治的な制約がつきまとう。これまでの景気拡張過程で、経済指標は(消費税増税による「逆噴射」を考慮すれば)比較的改善傾向であるが、経済がこのような状態にあるときに必ずといって指摘されるのが格差問題である。前回の安倍政権時も同じ問題がつきまとい、「再チャレンジ」などいろんなワーディングを使いながらそうした情勢をこなしていた印象が残る。歴史は繰り返す。現在は、「非正規雇用の増加とそれに伴う実質賃金の減少」というのが政権批判のキーワードとなっている。労働法制の見直しが予定されている政治日程の中で、これは結構キャッチーなワーディングである。
 追加緩和を行えば、一定のタイムラグをおいて物価が上昇する。さすれば実質賃金は、消費税増税の効果が剥落したとしても減少が続く可能性がある。なぜなら上述のように、所定内給与の増加幅はパートを除いたベースでみてもせいぜい1%未満である。浅はかな人間であれば、消費税増税の効果が剥落する4月以降、これまで実質賃金の減少をさんざん攻めてきた相手に対し、鬼の首でも取ったように反論してやりたいと考えるであろう。そのためにはまだ追加緩和させるわけにはいかない── というわけである。

 可哀想な中央銀行はさておき、「実質賃金の減少」という政権批判のキーワードは、今年後半、あるいは秋以降になるかもしれないが、いずれにせよ自然に消え去ることになるだろう(この文章の最後に書くような「矜持」を日銀は持たない、とすればであるが)。政権を批判する側としては、新たな格差ネタを探さなければならない。では実際に格差は拡大しているのだろうか── 本エントリーは実はここからが本題である。結論から言うと、非正規雇用比率が上昇を続ける中でも、ここ10年程度の間隔でみる限り格差は拡大していない。*3

 このブログでは、これまで断続的にジニ係数完全失業率の推移をみてきたが、その推移を直近時点まで引き延ばしてみた*4

 ジニ係数完全失業率は総じて連動している。ただし、2004年からリーマン・ショックの直前までは逆相関であり、完全失業率が低下する中でジニ係数は上昇し、格差は拡大しているようにみえる。このことについての私の見方は、賃金の下方硬直性を前提として考えたとき、デフレ下において、企業が非正規雇用を増やすことで賃金コストを抑制し、結果として雇用の増加と格差の拡大という相反する二つの事象を共存させたのではないか、というものである。
 ただし、リーマン・ショック以後は、ジニ係数完全失業率は再び連動し始めたようにみえる。すなわち、2012年後半からの雇用の改善の中で、総じていえば勤労者家計の格差は縮小しているのである。(なお、ジニ係数完全失業率との連動性については、これだけの情報で結論を出すことは難しい。)

 さらに分析を続けよう。年間収入階級別の世帯割合を5年ごとにみたのがつぎのグラフである*5

 2004年から2009年の間にはリーマン・ショックがあり、家計所得の面にも大きな影響があったと考えられる。実際にグラフからは、年収800万円以上の世帯割合が低下する一方で、年収300〜500万円の世帯割合が総じて上昇している様子が窺える。また、民主党政権の始まりから現在までをつなぐ2009年から2014年までの間をみると、年収900万円以上の世帯割合は引き続き低下している。一方、年収500万円以下の各年間収入階級では、世帯割合はほとんど変化していない。すなわち、この間、低所得世帯割合は上昇しておらず、高所得世帯割合の低下は、その間の所得階級によって補われていたことがわかる。

 このように、勤労者世帯については、これまでのところ格差はむしろ縮小しており、実質賃金の改善が始まる今年後半以降、政権を批判する側としては、再分配政策の不備など別の観点から議論することが必要となってくる。これはある意味では「苦しい」ものとなるだろう。
 他方、取り残された中央銀行の立ち位置は微妙である。現在までのところ、日銀は2年前に掲げた物価目標を曖昧化しているようにみえる。このままでは、経済主体が持つ期待インフレ率に働きかけ、デフレ脱却を確実なものとすることは難しい。もはや「春闘」というデフレ脱却のための重要なツールを働かせることは不可能であり、1年を無駄にしたようにもみえる。政権に対する中央銀行の独立性が維持されているのかどうかも正直なところ疑わしい。
 政権から独立し、デフレ脱却という目標を断固として貫くため、中央銀行としての矜持が今ほど求められる時期もないであろう。追加緩和を実施する結果として、再び実質賃金は減少するかもしれないが、それは二の次として── まあその際には、雇用が改善する余地はまだあるし、少なくともマクロの総報酬額では増加が見込めることに期待しましょう。それに、格差も拡大していないわけだし。がんばれアベノミクス!(棒読み)

*1:http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/rashinban/pdf/et14_262.pdf

*2:連合の集計結果でもそれが裏付けられる。 http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/shuntou/2015/yokyu_kaito/index.html

*3:なお、ここでは勤労者家計に限定して話を進めている。

*4:ジニ係数は、総務省『家計調査』の年間所得10分位階級別の年間収入から推計。

*5:資料出所は、総務省『家計調査』の年間収入階級別(全国・都市階級)。