備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

コストプッシュ型のインフレと賃金の問題

 賃金と物価の水準を相関図で確認すると、2013年以降、総じてみれば賃金と物価が歩調を合わせ上昇してきたことがわかる。それまでは賃金と物価がともに減少するデフレが継続していたが、2013年を境にそれが反転し、デフレではない状況となっている。

 諸外国と比較し長期的に日本の賃上げが停滞していることはよく指摘されるが、図から窺えるのは、物価との関係においては、2013年以降、賃金は比較的順調に上昇していることである。諸外国との比較では、賃金だけでなく物価の伸び(インフレ率)も総じて低く、日本経済が構造的な「低圧経済」にあること、そうした中で労働生産性が低いこと等、社会・経済の構造的な側面から考えることも必要になる。


 一方、足許の動きをみると、物価は明らかにトレンド線から高まる方向へ推移している。国内要因による通常のインフレ(ディマンドプル型のインフレ)は、景気の過熱により、総需要に対し総供給が不足することで生じる。この場合、労働力を含む生産要素は不足し、平均賃金は上昇する。しかし足許の賃金の伸びは小さく、現下のインフレを説明できるものではない。
 同様の傾向は、いわゆるリーマンショックに端を発する金融危機の直前、2008年の夏頃にもみられるものだが、以前のエントリー*1でも指摘したとおり、このときは原油や原材料価格が上昇し、物価にはコストプッシュ型の上昇圧力が働いた。コストプッシュ型のインフレは、いわば外国に税金を課されたようなものであり、総需要を低下させ雇用情勢を悪化させる。したがって、現時点でのマクロ経済政策のポジションは、(内外金利差や為替相場がどうあれ)積極財政・金融緩和の立場を継続することが定石となる。
 仮にディマンドプル型のインフレが生じているとすれば、労働力は不足し、必要労働力を確保するため、企業は入職時の賃金を引き上げる。日銀短観*2による企業の雇用人員判断は、コロナ禍の中にあっても不足超であり、足許、その不足幅は更に深化している。ただしこれは「見かけ上の不足」であり、これを解消するために一層の賃上げが必要となる。実際は、コストプッシュ型のインフレが生じたことで賃上げが物価の上昇に追いつかず、この状況が継続すると総需要は縮小し、日本経済は再びデフレに舞い戻ることになる。

正規雇用と賃金の問題

 賃金は、いわば労働力の「質」的側面を示す指標とみることができる。デフレではない状況となった2013年以前、特に今から15年ほど前のことを考えると、構造的な賃金の問題は、主に、正規雇用者が(平均賃金の低い)非正規雇用者に「置き換わる」ことがもたらす雇用の問題と認識されていたように思う。雇用の問題に関する、この頃の認識を整理すると、

・ 新規学卒時に非正規雇用に就く者は、年齢が上がっても非正規に留まり、非正規雇用者は「階層化」する傾向がある。
・ 非正規雇用者の賃金は、(正規雇用者と異なり)年齢や勤続年数が上がっても上昇しない。その背景には、教育訓練機会の格差がある。
・ 男性の非正規雇用者は有配偶率が低く、また日本の少子化は(有配偶者の子供の数より)有配偶率の影響が大きいことから、雇用の問題は少子化とも関係する。

というものである*3。よって賃金の問題も、少子化と並び、主に非正規雇用の問題として認識される傾向があった。
 しかし2010年代半ばを境に、雇用情勢は大きく変化する。総務省労働力調査 詳細集計』のデータによれば、それまで減少していた正規雇用者は2015年から増加に転じる。非正規雇用者はその後も増加しているが、正規雇用が非正規雇用に「置き換わる」状況にはない。さらにいえば、コロナ禍において、むしろ非正規雇用は減少し、正規雇用者の割合が高まっている。

 この背景には、日本経済がデフレ下の「負のスパイラル」から脱し、総じて拡張的なマクロ経済政策のもと、総需要が拡大したことが上げられ、前述の雇用人員判断における不足超の深化も、それを裏付ける。一方、構造的に停滞する賃金の問題は、かつてのように非正規雇用の問題と結びつける認識を離れ、別の文脈から、すなわち正規雇用も含めた雇用の「質」を捉える文脈から考えることが必要になる。

 賃金の問題に関連する近年の話題として、一つには、以前のエントリーで分析した、過渡期にある日本の年功賃金が上げられる。

traindusoir.hatenablog.jp

このことは、先頃よく話題に上がる「リスキリング」や賃金制度の見直しの必要性に直結し、前述の労働生産性に加え、労働移動とも関係してくる。いずれにしても、積極財政・金融緩和的なマクロ経済政策のポジションは継続することが前提であり、日本経済を「高圧経済」にし、より生産性を発揮できるポジションへの移動を希望する労働者が移動しやすい環境を作ることが課題となる*4
 さらにもう一つ上げるとすれば、集団的労使関係、国・産業単位の交渉の成果が社会に波及するメカニズムの再構築、ということも、近年よく聞かれる話題である。協調的な労使関係の下での賃上げの抑制は、バブル崩壊以前、80年代の第2次オイルショックの頃から数値的には確認できる *5。かつては、オイルショックの影響を軽微なものに止めたことで評価が高かった労使協調主義であるが、現下、これが日本の「低圧経済」の主因であるという見方には否定し難いものがある。

*1:https://traindusoir.hatenablog.jp/entry/20140402/1396436820

*2:https://www.boj.or.jp/statistics/tk/index.htm/

*3:厚生労働省『平成18年版 労働経済の分析』(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/06/)の第3章第2節を参照した。

*4:逆にこれができないと、人手不足のポジションに労働者を強制的に動員する、といった有り得ない発想も生じ得る。

*5:厚生労働省『民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況』(https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_27034.html)による。