備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

清水真人『財務省と政治 「最強官庁」の虚像と実像』

類書としては、未読だが話題の書となった『官邸主導』や、『経済財政戦記』*1、『消費税 政と官との「10年戦争」』等の著者による、大蔵・財務省を中心とした25年間にわたる政治史。内容的には、先にあげた『経済財政戦記』等とも重なる部分があり、自分にとっても同時代史であるが、本書のオリジナルな要素としては、無論のことながら歴史記述の中心に財務省を据え、特に財務省と政権・与党との関係が中心に記述されていることと、2014年の消費税増税以降の情報が追加されていることである。同著者による他書と同様、淡々とした記述の中にも一気に読ませる勢いがあり、細部に宿る重要性を捉える眼力や、それを記憶し、文脈の中につなげていく筆力には、いつも感心させられる。

財務・大蔵省と政権・与党とのパワーバランスが崩れたのは、まさに本書の始まりの時点である1990年代初頭、最初の政権交代が起きて以降ということができる。それまでの大蔵省が持っていた力の源泉について、著者は、(1) 予算査定を通じ霞ヶ関内に張り巡らされた情報網、(2)霞ヶ関内のヒトとカネを握る主要なポストや総理・官房長官等の秘書官ポストを押さえてきたこと、(3)金融の護送船団行政やメーンバンク制を通じ金融・産業界の情報も収集できたこと、(4)税の徴収を担う国税庁の存在、などをあげている。こうした情報の力、あるいはそれを活用する力によって、かつての大蔵省は国政のコントロールを一定程度行うことができたといえよう。

しかしこのような力の源泉は、政権交代を経て成立した橋本行革の中で、その多くを奪われることとなり、そこに生じる「権力の空白」では政治の混乱が起こることとなる。本書を読んでいて気付くのは、実は政権交代は直接的に財務省の力を削ぐことにはつながらず、実質的に財務省の力の源が削がれたり、あるいは財務省が蚊帳の外に置かれたりするのは、その直後の自民党政権においてであることだ。これは細川政権の時と同様、民主党政権時にも同じことが生じている。このことは、本書を通読することで明確になる*2

また橋本政権以降の自民党政権では、自民党内のガバナンスにおいて、「竹下派」ないし派閥中心の支配から、いわゆる「YKK」等派閥横断的な組織化の動きが明確になる。そうした中で、先日亡くなった加藤紘一という政治家が果たした役割や、政治史におけるその位置付けについても、本書の通読からおぼろげながら見えてくる。こうした加藤紘一らと財務省、あるいはその背後にある派閥支配的なものとの対立軸は、現政権においてもまた違った形で息づいているように思える。

多くの力の源泉が奪われ、また自民党内のガバナンスの変化が生じる中でも、いまだ財務省という組織の力は健在である。最後に書かれている「人材の枯渇」のリスクは大きいが、そうはいってもこの先十数年内の国政への影響力は十分に大きいものがあるといえよう。現代においてそれを可能としているのは、やはり相も変わらず「情報の力、あるいはそれを活用する力」である。加えていえば、毎年の通常国会で予算案を通すことには、時の政権にとって多大なエネルギーを要する。予算委員会における審議は国民の目にさらされる機会が多く、他委員会と比較してその厳しさは比較にならない。審議を円滑に進める上で、与党の国会対策とタイアップした財務省の力はどうしても頼らざるをえないものである。こうした時の政権に対する予算委員会の「圧力」は、引き続き、財務省にとって大きな力の源泉であるといえよう。

なお、本書を通じ財務省というのはいかにも一体感のある組織のようにみえ、まるで一つの顔しか持たない組織のように思える。欲をいえば、財務省内部でのあり得べき確執等についても描いて欲しかった。一方で、財務省と日銀の関係は比較的よく描かれている。その関係は思っていた以上に密接であり、GPIFの資産構成見直し時における日銀とのすり合わせの話など、「なるほどな」と思わせるものもあった。

*1:これについては下記を参照:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20080220/1203516597

*2:それと併せ、細川護煕小沢一郎鳩山由紀夫菅直人といった政権交代を演出した政治家の「本質」もよくわかる。また、金融国会時の政策新人類の活躍については、世の中的に過大評価されているという印象を持った。人間の「本質」とはそうそう変わるものではなく、その印象は現在まで続く。