ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

大沢真理『企業中心社会を超えて 現代日本を「ジェンダー」で読む』

初版は1993年で2020年に改めて文庫化されたもの。タイトルに明示されるとおり、本書では、日本経済がオイルショックを効果的に乗り越えることができた理由として世界的にも評価された日本的雇用慣行を「ジェンダー」の視点から批判的に読み解き、唯物論フェミニズムと接続した独自の労働問題を理論化する。その際、主として批判の対象とされるのは(やはり、というべきか)小池和男の「知的熟練」であり、小野旭、野村正実、橘木俊詔から、小池の理論的出自ともいえる氏原正治郎まで取り上げ、家事労働の責任を負うことのない日本の男性労働者の「特殊」性に輪郭を与える。

家父長的賃金体系

本書には様々な研究やデータが引用されるものの、時代が異なるため、賃金格差や性別の生活時間に関する言及等をそのまま受け取るわけには行かない*1。ただし、第2章で取り上げられる日本特有の下請構造と技術革新、生産性の違いに関する社会学者らの分析は興味深い。この分析によれば、「日本には企業規模別に大きな付加価値生産性の格差があり、賃金格差はその反映に過ぎない」との見方に対し、因果を逆転させた見方、すなわち「(量産化に適しない)生産性の低い小ロットの労働を下請に出すことで、結果として、企業規模間の生産性と賃金の大きな格差が生じている」との見方を提示する。また、この生産性の低い労働は、主として女性によって担われる。すなわち「家父長的賃金体系」を与件とした女性の低賃金労働によって、日本の下請構造は支えられているとする。

このような見方は、企業規模間の資本装備率が異なることを踏まえると、やや一面的な見方とも思え、労働市場をベースとして性別の恒常的な賃金格差を考えた場合には、これを統計的差別とみるのが一般的である。ただし、日本の雇用に関わるオルタナティブな「モデル」の提示は、時代を超えて日本の労働問題に関する示唆を与える。
いずれにしても、統計的差別など情報の不完全性を根拠とする見方に加え、著者のいう「家父長的賃金体系」(男性労働者に対する生活給賃金)についても性別賃金格差の根拠の一端を担うとすれば、「賃金格差は能力による合理的なものだ」と根拠付けるのは欺瞞、ということになる。

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日本型福祉社会論

第3章では、自民党の「日本型福祉社会」論を素材として、1980年代の社会保障制度の見直しが、「家父長制」を前提とする日本の社会保障制度の狭間にある母子家庭の女性労働者にとって、いかに脆弱な環境をもたらしたかを具体的な事件を導きの糸としつつ論じる。また付論では、日本の社会政策論が、「ジェンダーを前提」としながら、これを「暗黙の与件」としていることについて問い直す。

文庫版あとがきでは、賃金の推移、特にアベノミクス期以降の実質賃金の低下を取り上げ、格差は拡大しているとみる自身の見解を示した上で、「課税努力」による再分配機能の回復を訴える。ただこの点に関し留意点を述べれば、日本ではオイルショック等の経済危機を乗り越える過程で、雇用を維持する一方、賃上げを抑制する傾向が一般にみられてきた。実質賃金が低下する間、雇用が増加したことは、かつての危機からの回復期と同じ傾向を示すもので、以前にも指摘した通り、労働生産性が高まらない中での「賃金の抑制にサポートされた「生産要素間の代替効果」による労働需要」である可能性が高い(問題とすべきは、労働生産性を高めることにあるのではないか)との点は指摘しておくべきだろう*2

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なお著者の名前は、2021-11-14付けエントリーで取り上げた兵藤釗『戦後史を生きる 労働問題研究私史』の東大紛争が始まる直前のところに、つぎのように現れる。

 先ほどお話ししたように、僕の講義はプリントが東大出版会の教材部から出ていたのですが、イギリス留学から帰ってきた年の講義プリントを見ると、僕がしゃべってないことがたくさん書いてある。そのプリントの最初に、これは経済学部のOさんのノートを素にして作成したものですと印刷してあるんです。
   上井:大澤真理ですね。
 そうでした。大澤君はG・D・H・コール『イギリス労働運動史』を主たる材料とし、ほかのものも使って、僕の講義が簡略に過ぎるところに勝手に書き加えているんです。
   上井:(中略)大澤はあのノートを作る時に労働の勉強を相当していますね。
 そう。彼女が近経からマル経、それも労働に変わる時期ですからね。ひょっとして前年度僕の代講として行われた戸塚さんの講義も聞いているかもしれない。
   上井:彼女は戸塚さんの講義を聞いて労働を強く意識するようになったらしいです。
 教材部に行ってこれ誰のノートと聞くと、大澤という女子学生さんですという返事でした。びっくり仰天しましたね。ああいう勉強家は前代未聞です。[pp.225-226]

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*1:日本の男女間賃金格差を国際的にみると、現在においても格差は大きいことを示すデータが文庫版あとがきで示されるものの、格差自体は縮小傾向にある。

*2:さはさりながら、上述の「傾向」について、日本の長期デフレと関係性を改めて問い直すことの必要性は感じられる。