ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

読書の前提としての備忘録−「ある種の人達」に関連して

 08/16付けエントリーに関連して。ところで、社会システムについて、①契約と市場の下における個人の主体性を尊重すべきなのか、②国家や企業などのある種の中間的な組織体の中での安定を重視すべきなのか、という問題は、引き続き、オープン・クエスチョンとして残されるのだろう。当ブログの周辺における議論をやや乱暴に総括すると、「経済系」では①、「労働系」では②によって立つ議論が多いような気がする。「思想系」では、人間の価値観や身体に対する権力の介入について、懸念する傾向が強い。例えば、稲葉振一郎「「資本」論」などは、①的な立場への信条表明のようにも読める。
 一方で誤解すべきでないのは、契約と市場の下における個人の主体性を尊重することが、世間的に認識されているような「弱肉強食」的な「市場原理主義」を意味しないということである。市場における価格調整のメカニズムがもたらすのは、「誰かの目的を改善させようとした場合,他の人の目的が改悪されてしまうような状態」を意味する「パレート最適」、つまりWin-Winの状態であって、「弱肉強食」のような状態ではない。加えて、再分配政策等の手段によっては、「社会厚生の最大化」よりもむしろ社会的弱者の経済厚生を重視するような仕組みを社会システムの中に組み込むことも可能である。さらに言えば、現代の市場経済が含意している経済的自由とは、適切な企業開示の確保や経済法、労働法による「妥当な範囲での」規制がある中での自由である、と考えるべきではないかと思われる。*1
 このように考えを進めてくると、(経済主体の行動を歪めない範囲で実施される)再分配政策等のマクロ経済政策や市場メカニズムを適切に働かせるための政策とは別に、企業や個人の行動に対して直接的に介入するような「法規制」については、両者において、その見方が分かれてくる。ただし、このような「法規制」の必要性に係る議論が、(一国全体の)ジニ係数に代表される格差問題を拠り所にしてしまうと、これを是正する政策の基本はマクロ経済政策である以上、議論の趨勢はみえているといわざるを得ない。*2では何を拠り所とすべきかであるが、恐らく、人間としての尊厳や個々人の意欲(及び労働生産性)、といったところに求める必要があるように思われる。
 さて、話を「ある種の人たち」に戻すと、彼らは、日本的雇用慣行が内包している企業内での雇用の安定を放棄し、国家の規制の下で、外部労働市場における同一労働同一賃金を確保する、という方向への移行を目指しているようである。これは一見、社会のルールの中に新たな規制を組み込むことで、これまで、日本的雇用慣行の下で「不合理に」扱われてきた非正規雇用の労働条件を「合理的な」水準にまで引き上げ、彼らの働く意欲を高めることで、ひいては潜在成長率を高めることを目的としており、①の立場からの議論である、という風にみることは可能である。ところが、見方を変えると、日本的雇用慣行が内包する「合理的な」従業員の職業能力形成機能と雇用の安定機能を阻害し、国家の介入により、こうした社会システムの下では誰かが担わなければならない周辺労働の価値を「合理的でない」水準にまで高めることである、という風に②の立場からの立論であるとみることも可能である。
 果たして、企業は長年、労働生産性を低めるような非合理的な雇用慣行を強いてきたのであろうか、と考えると、前者のような見方に立つことは難しい。自分自身は、08/07付けエントリーにある通り、日本的雇用慣行を擁護するとともに、その中に①の考え方も織り込みつつ、個々人の意欲に働きかけることは可能であるとの見方に立っており、それは主として、「日本型雇用慣行による成長モデルが変質」することへの懸念からである。無論、こうした見方への対論としては、外部労働市場を職種別に整備されたものになるよう働きかけ、これまで企業によって維持されてきた雇用の安定を市場によって維持されるようにすべきではないか、という考え方もある。しかしながら、同じ対論をとるにしても、「ある種の人々」のように「国家社会主義」的な立場に立つのではなく、①の立場に依拠した成長モデルを描いて欲しいものだと考えている。
 なお、この文章は、これから読む予定の数冊の本の理解のためのベースとして記載したもの。今後は、これらの本と、日銀レビュー、ローマー「上級マクロ経済学」の要約・感想を暫く続けていくつもり。
 
(関連)
1.小林慶一郎「市場経済は目的か手段か」(前編後編)(MM日本国の研究)
2.「あたりまえのこと」(もじれの日々)
3.日々一考(ver2.0)における関連エントリー

*1:ところで、国民全体の希望としては②の立場の方が強いと考えられる。このことは、民主党党首が、選挙対策のため、言葉の語義を意図的に(?)誤りつつも「終身雇用はセイフティ・ネット」と発言するところからも読み取れる。

*2:この点は、ジニ係数をベースとする格差問題を拠り所にした小泉政権批判が、景気回復期という環境の下では、その議論を開始した時点で既に終わっていたことと似通っている。