ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

間宮陽介「ケインズとハイエク 〈自由〉の変容」

ケインズとハイエク―「自由」の変容 (中公新書)

ケインズとハイエク―「自由」の変容 (中公新書)

第1章 喪われた世界

  • 功利主義者は、「善い」を快によって定義するのに対し、ムア倫理学では、功利主義の前提とする「善い」の定義可能性を否定。「善い」は、直覚に拠って、直示することに拠ってしかその内容は分からず、「...である」という形では定義できない。ムア倫理学では、「善い」をある有機的統一を成している全体である、とみるが他方で、理想を最大最高の善とし、その不可欠の要素として、人間の交わりと美的享受を挙げる。
  • ハイエク感覚論の特徴は、感覚を外部世界の刺激が与えた感覚器官への刻印とはみず、それが神経系により識別分別され、別の秩序に変換されたものとみる点。カントは、世界を人間精神の構成物とし、世界を構成する人間精神は世界の外、時空の外に立つ超越的な理論理性とするが、ハイエクにおける人間精神は、あくまで世界の中に在り、世界の中で形成されるもの。現実や世界はアプリオリに在るのでなく、理論という画像で構成されたものである、との見解をとる。

第2章 自由主義と自由放任主義

  • ケインズは、「自由放任主義の終焉」で自由放任に死を宣告し、管理通貨、投資の管理、企業カルテル化への新しい信念等計画主義の哲学を始めて明確に述べる。これは、A・スミスの世界を現実的な世界ではない、とするものであるが、自由主義と「主義としての自由放任」ははっきり区別することが大切。スミスの考える人間の利己心は、「啓発された」利己心であり、制約や限定が一般的規則、法、慣行等の形で社会の中に埋め込まれている点が重要。一方、ケインズは、自由放任主義の方に終焉を宣告しようとしたのであり、無限定の私的利益の追求を社会化するため、統治が個人と国家の中間にある組織(法人組織、大会社等)に委ねられる事態を考えた。
  • ハイエクにとって、自由は唯、強制からの自由を措いて他になく、社会主義ファシズムは言うまでもなく、民主主義でさえも国家の機能を拡大させ、個人の私的領域への介入を強めるとする。「真の個人主義」者は、自生的な社会の利点や長所を積極的に主張し、個人が社会の中で活動し生活していく際の諸条件を問う。その中には、個人の自由だけでなく、長年の人間の知恵の集積たる慣行、法、伝統等も入る。計画経済論争におけるハイエクの主張(略)。
  • 「実証的」なる語は、「自然的」に対置すると伴に、「形而上学的」に対置しても用いられる。いずれの意味に措いてもある共通性があり、人間の這い蹲っている地表のみが現実的世界であり、天空や足下の世界は夢幻だ、とするもの。19世紀以降、実証主義の興隆と伴に、自由と恣意の区別は判然としなくなる。自然法学派と異なり、ケルゼン等法実証主義派は、超法的原理を法の領域から閉め出し、法を専ら人間意志の意識的な命令のみから成るとする。但し、それは「悪法もまた法なり」という言を前にしては無力。
  • 権威と個人の自律をどのようにして調和させるか、との問題に対し、自由主義は、「個人は非個人的、客観的かつ永遠の権威にのみ服従」(ハロウェル)することによって調和は可能になると考える。「神の見えざる手」は比喩ではなく、市場社会の中の超個人的原理を遠回しに表現したもの。自由の原子論は、決して社会理論たり得ない。

第3章 ハイエクの自由論

  • ハイエクは、自身の擁護する自由主義を「進化論的」な自由主義と呼ぶ。進化の過程とは人間の経験から学ぶ過程のこと。新しい事態に直面する時、嘗ての経験は大なり小なり無力に陥るが、そのような場合でも一から再出発するのではなく、これまでの経験的な知恵を部分改良して事に対処すべきと言う。
  • ハイエクの分類では、「...を為せ」というのは命令であり、「...を為すべからず」というのが法。法の支配する社会は、言い換えれば「原則」の支配する社会。原理原則の体系は個人の行動の予見可能性を高め、それによって人々の行動の自由度は高まる。これに対し、個々の事例に介入し、個別の目的を達成しようとする「便宜主義」の政策は、目先の結果を求めてその長期的な帰結を無視する。状態としての正義は特定の形として提示することは出来ず、無限の彼方にある不定形としての正義のみがある。それは不正を除去しようとする人間の努力行為を力づける。
  • 自由主義に対立するのは全体主義であり、民主主義に対立するのは権威主義。よって、民主主義の下での全体主義は可能であり、「多数者の専制」と言う事態はこれに当たる。思想史的には、人民主権という政治上の権利は自然権として主張されたが、この自然権は、人間は本来理性的な動物であるとの人間観に裏打ちされている。こうして自然権=人間理性となり、社会はこの簡単明瞭な原理に基づき幾何学的に線引きされなければならないと主張されるに至る。
  • これに対し、自由主義は人間の不完全性から出発し、民主主義は人間の背丈の大きさに社会を縮小させるとみる。「多数者の専制」も、その元を辿っていくと、自然権に現れるような人間の絶対視に行き着く。民主主義は、自由主義に最もよく合致した政治制度であるが、ハイエクは、民主主義が価値を持つのは手段としてであって、目的としてではない、とする。

第4章 自由のディレンマ

  • ケインズは、一般化していく投機的活動に、私的利益と公的利益の裂け目を見る。経済は次第に「流動的」になり、視野は短期化する。ケインズにとって「不確実な」状態とは、期待を形成するに際して拠るべき手持ちの知識が極めて乏しい状態。「企業」活動は、不確実な状態の中にあって、あくまでもその不確実な状態を打開していこうとする活動。企業が投機に変貌し、長期期待によって行われるべき投資が短期的視野の投機に従属する場合(経済の金融化)、経済の実物面がそれに伴わず、不完全雇用や不況という豊かさの中の貧困が立ち現れる。
  • ケインズは、経済学は(自然科学ではなく)モラル・サイエンスであるとし、貨幣経済というモラルの空間に立ち入る端緒を与えるのが、「契約が貨幣により結ばれ、取引が貨幣を用いて行われるのは何故か」という問い。ジンメルによれば、貨幣の確実性は貨幣それ自身に内在しておらず、貨幣が用いられる社会的文脈(環境)の確実性に由来する。賃金や価格は、希少性の程度を示すシグナルであると伴に、契約の一条件であり、契約・取引の慣行が取引関係の安定性を優先させて価格の変動幅を小さくしようとする所に価格の粘着性は由来する。

終章 大衆社会の中で

コメント ハイエクの自由論は、本来、ケインズの思想と相対するものではない。そのことは、19世紀以降の無制限、無限定の自由を志向する自由放任主義、経済の金融化、大衆民主主義化という分かち難く結びついた3つの要素を通してみた場合に明らかとなる。ただし、この場合のケインズは、有効需要の不足を問題とし、「長期的にみると我々はみな死んでしまう」と語ったケインズとみるよりも、ケンブリッジ学派の伝統の中に位置づけられ、投機に現れる人間の心理面などを経済不安定化の要素とみるケインズとみるべきかも知れない。前者に照らしてみると、ハイエクは、むしろその考え方の背後にある「便宜主義」「裁量主義」の影響に懸念を示している。
 また、経済の金融化という問題は、現代のように市場が整備され、情報が瞬時に流れるような環境の基で考えた場合、当時とはその影響は異なってくることも考えられる。さらに、国家の介入についても、経済主体の行動を直接的に変える手段としてだけではなく、「期待」の効果によって、経済主体の将来を含めた合理的な選択に働きかける手段、としても捉えられる。その上で考えた場合、時に垣間見られるM・フリードマンへの批判的な視座等は、もう少し検討すべき要素も残されているような気もしてくる。
 しかしながら、ハイエク自由論は、現代に於いても、時に、ある理想的な社会モデルを正義とし、これを実現するためには、それまでに自生的に生じた伝統や慣行を破壊することも厭わないような向きがある中で、必ずしも色褪せたものではないことを認識させられる。