ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ワーク・ライフ・バランスについて(その2)

 12/07/06付けエントリーの続き。現実というのは唯1つしかない。(私の見ているこの現実と、あなたの見ているこの現実は違うというような話が正当化できるのなら別だが。)その現実を変える手法としては、①ある種の規範性に即して、あるべき姿へと一挙に変革すべきという立場と、②自生的なものとしての現実に「働きかける」ことで、(当面の)あるべき姿に漸進的に変えて行くべきという立場、という2つが考えられるが、②のような姿の方に手法としての優位性とフィージビリティを感じている。その理由は、一つには、一挙の改革という路線には、どこかに大きな歪みを生じさせ、時に、そのような歪みは社会全体の現実をゆがめる可能性もあるからである。また二つめとしてより重要な論点を挙げれば、人それぞれが考える規範性、厚生基準は異なるためである。一人の全能者が規範とする基準に基づき、社会を計画的に「運用」することなどできはせず、政治的なプロセスとしても、そこで決められた制度によって将来にわたる主体の行動に縛りを掛けることになりかねない。
 このような2つの立場を隔てるものは、例えば、嘗て論じた社会システムについて、(1)契約と市場の下における個人の主体性を尊重すべきなのか、(2)国家や企業などのある種の中間的な組織体の中での安定を重視すべきなのか、といったレベルの問題よりも、さらに一歩前の段階にある。その意味では、より根本的なものであるといっても良いだろう。後者のようなレベルの問題は、上記の問題における規範性の選択に関わるものである。つまりは、最初の①の立場は、(1)と(2)のような対立をより重視するのに対し、②の立場は、(1)と(2)のような対立軸に立脚しつつも、今そこにある現実というものを重視するものである。
 先に論じた「ワーク・ライフ・バランス」に則して言えば、長期雇用システムという現実を変革することで一部の層に歪みをもたらすとしても、何らかの規範性(例えば、「個人の生活全般の改善、充実」)に立脚して現実を変えたいというものである。(その結果として、理想的なものが一部の恵まれた層だけにもたらされ、別の層には高失業がもたらされる、との見通しは、先に述べた通り。)②のような立場からすれば、制度の設計は第1にこの現実に立脚して行われるものとなるため、そもそもそのような大仕掛けは必要とはされない。
 無論、社会全体のレベルではないミクロのレベルにおいて、ある種の規範性に即した行動をとることは問題とはならない。問題となるのは、そのような規範性を社会のマクロ的な現実に分別なく適用することである。また、この場合は、無知であることも看過され得るものではない。