備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ダロン・アセモグル「人的資本政策と所得分配:分析のフレームワークと先行研究の検討」(New Zealand Treasury Working Paper 01/03)

(01/09/09付け追記)

 6.2節は、さきに終了。6.3.7節を大幅に修正し、公式サイトに登録しました。6.3.5は、これからとりかかります。(公式サイトでは、とうとう山形浩生さんも参入されました。)
 この論文、経済学による正統なモデルを用いながら、(社会政策としての)雇用政策についてこれまでされてきた議論の多くを網羅し、それに「公正」な評価を与えるという優れものです。

(01/10/09付け追記)

 平家さんの監修(トラックバックを参照)をいただき、6.2節を大幅に修正しました。

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人的資本政策と所得分配分布:分析のフレームワークと先行研究の検討

ダロン・アセモグル

6 不平等を縮小する政策


(中略)

6.2 課税による再分配

課税による再分配(redistributive taxation)は、所得不平等を縮小する上で魅力的な政策である。前節で議論したように、賃金構造を直接圧縮(compress)する政策は、低賃金労働者の雇用を減じるなど、いくらかの逆効果をもたらすことになる。課税による再分配では、そのようなコストを避けることができる。それだけではなく、課税システムがより再分配的であると仮定するならば、全体的な課税負担を増加させることなく、低賃金労働者の働くことによる限界収益を増加させることさえできるかも知れない。
 にもかかわらず、多くのエコノミストは、就労インセンティブを低下させる効果があるであろうことから、再分配政策には慎重である。その推測は、高い税率は、さらに努力しようという意欲に水を差したり労働時間を減らすだろうというものである。課税による再分配により、高い税が特に高所得の個人に課されるし、そのために、再分配政策が起業を減じるという可能性を、何人かのコメンテイターが指摘してきた。
 しかしながら、課税による再分配の効果についての経済理論による予測は、あいまいである。他の条件が同一であるとき、高い税率は、労働時間と努力水準を減じる。これは、経済学における、一般的な代替効果である。しかし、それに反対に作用する所得効果もある。高い税率は、個々人の可処分所得を減じ、そして彼らに対し、すべての正常財(正の所得弾力性を持つすべての財)について、より少ない量の消費を強制する。このことは、余暇は正常財であるため、高い税率によって形成される所得効果が、長い労働時間と一層の努力を促すことを意味する。よって、高所得者の就労インセンティブについて課税による再分配が引き起こすであろう結果は、実証的な題材となる。とても高い限界税率、例えば、70%または80%を超えるような限界税率は、明らかに深刻なディスインセンティブ効果をもたらすだろう。[しかし、]適度に高い限界税率が高所得者に引き起こすであろう結果は、明らかではない。
 税率の上昇が所得にどのような変化をもたらすかを推計したアメリカの文献は数多い。大きな効果を推計したものもあるが、大多数は、小さな反応を推計したものである。これらの文献の大部分は、Pencavel(1986)によってサーベイされている。彼は、税率の変化に対する労働時間の弾力性はゼロに近いと結論づけている。もっと最近では、1980年代における高所得者の課税前所得において、高所得階層に対する税率の削減による大きな効果を、何人かの研究者が推計している(Feldstein(1995)など)。しかしながら、これらの税率の削減は、すでに所得不平等が広がりつつあった期間において実施されたものであり、また、これらの推計では、中/高所得者間の所得のギャップを広げる他の要因をコントロールしていない。さらに、税率の削減は、課税対象となる所得を申告するインセンティブを変化させ、特に、労働所得を資本所得(または、企業所得)にシフトさせるインセンティブを変化させる。よって、高所得の個人について計測された所得は、これらの変化も反映するだろう。
 よって、アメリカの文脈においては、適度な課税による再分配は、大きくインセンティブを低下させるような効果は持っていなかったようであり、根底にある賃金不平等がとても大きいときには、課税前所得の不平等を減じる上で有効な方法であると、私は結論付ける。
 課税による再分配によるそのほかの逆効果は、Heckman, Lochner and Taber(1998)によって指摘されている。彼らは、課税による再分配は、学校教育による正味の収益を減じることによって、人的資本投資を妨げることになるかも知れないと論じた。平均的な人的資本投資が低いほど、スキルプレミアムと不平等を増加させるかも知れない。この論拠は理論的に正しいものだとしても、パート3とパート5の議論は、その実証的な重要性は限られていることを示唆する。第一に、スキル価格に対する平均的な人的資本投資における変化の影響は、小さなものでありそうだということ。第二に、個々人が、彼らの人的資本投資に関する決定において、学校教育による正味の収益に対し強く反応するような証拠は、ほとんどないことである。それゆえ、私は、適度な課税による再分配は、課税前所得の不平等を減じる上で有効な方法であると結論付けるのである。
 それにもかかわらず、アメリカの証拠をニュージーランドに適用することは困難である。ニュージーランド経済には、いくつかの他と区別される特徴があり、それらは、課税による再分配が経済活動にどのように影響するかということに、重要な関係がある。第一に、ニュージーランドにおける高所得の個人は、比較的簡単に、オーストラリアに移住してしまうかも知れない。それとは対照的に、アメリカから他の国へのそのような移住の機会は、限られている。高所得の個人の移住の可能性は、課税による再分配が意図したものとは逆の結果をもたらす危険を高める。第二に、ニュージーランドとアメリカでは、税の構造に重要な違いがある。特に、ニュージーランドでは、税はすでにより累進的であり、また、間接税の構造が異なっている。よって、課税による再分配を強化する前に、労働供給の税に対する弾力性や、高所得者の移住率について、注意深い評価を行う必要がある。

(6.2節について了)

6.3 人的資本政策

(中略)

6.3.7 オンザジョブトレーニングを推進する政策

パート5における議論で示されたように、訓練への投資は過小であるらしい。このことは、訓練を促進する政策を潜在的に有効なものとする。このレポートで焦点をあてるべき重要なことは、訓練を促進する政策は、分布のトップと底辺の間のスキルギャップを減じるための、最も効果的な方法のひとつであるらしいということである。それはなぜなら、大学教育を促進する政策と対照的に、訓練を促進する政策は、スキルと収入の分布において、より低い“テイル”にある労働者を救うことができる。高卒資格のない労働者や、高校だけは卒業した労働者は、機械工や大工など、ある特定の職業や、自動車製造や銀行など、所与の産業におけるスキルを獲得することで利益を得る。そのようなスキルによって、彼らの生産性や収益力を大きく高めることができ、スキルと収入の社会の中でのギャップを縮めることができる。
 そうした政策が不平等を縮小するために有効であることは、ドイツの例によって説明される。アメリカやイギリスとは対照的に、ドイツには幅広い実習生制度(apprenticeship system)がある。*1大学を継続しない大部分の若者は、いっせいに、彼らに訓練を提供する会社で働く。そのような実習生プログラムは、典型的には3年間継続され、そして、教室での学習と工場の現場における訓練の双方を含んでいる。多くのコメンテイターは、高卒以下のドイツの労働者で、そのような実習生プログラムのもとにいる者は、それと比較されるアメリカの労働者よりもより多くのスキルを有していることを論じている(例えば、Steedman(1993)、Franz and Soskice(1995)をみよ)。実際、1980年代のアメリカにおいて、高卒以下の労働者の実質賃金が大きく低下した間、ドイツにおいてそれと比較される労働者の実質賃金は増加した。このことについてのもっともらしい説明は、スキルに対する需要を増加させた1980年代における技術変化(technological change)が、比較的低スキルのアメリカの高校卒業者に損害を与えた一方で、実習生プログラムによってかなりのスキルを獲得したドイツの高校卒業者は損害を与えなかった、というものである。
 ドイツの実習生プログラムは、使用者自身によって支出されたものであるが、政府は重要な役割を行っている。例えば、政府は教室での学習を監督し、実習を受講している労働者のスキルを認定する。建設業では、高い異動率が、会社の支出による訓練を実行不可能なものにするが、政府もまた訓練に対し補助金を与えている。
 これらの議論は、訓練を促進する政策は、不平等を縮小する上で有益で、かつ、効果的であろうことを示唆する。しかし、どのタイプの政策か?そこには、政府が訓練を促すために実行することができる、大きく3つのタイプの政策がある:労働者に訓練を提供する会社に対する補助金や課税控除(tax credits)、政府機関による訓練の直接的な提供、そして、会社が提供する訓練プログラムの監督である。
 もっとも一般的な救済手段は、補助金である。訓練における過小投資がある限り、訓練を行う会社への補助金やオンザジョブトレーニングに対する課税控除は有益であろう。たとえ、訓練における過小投資がなかったとしても、そのような補助金は、社会におけるスキルの分布の最低層の“テイル”にあたる労働者の人的資本を増加させ、不平等を縮小することに役立つ。
 しかしながら、一つの潜在的な問題は、職場での訓練を監視することが困難であるとき、補助金は相対的に非効率であろうということである。例えば、もし、会社が提供する訓練の質または量が契約不可能(non-contractible)であれば、補助金の有無にかかわらず、会社は同じ量の訓練を選択し、補助金は単に、会社にとっての棚ぼたの収入となってしまう。
 補助金の代わりとなる手段の一つは、政府による訓練の直接的な提供である。しかしながら、政府の訓練プログラムは、訓練と生産との間の相互補完性を引き出すことに失敗し、そのカリキュラムは、ビジネスと訓練生のニーズに対して後れをとることになるだろう。アメリカにおける補助金と政府の運営する訓練プログラムの経験はむしろ雑多であり、多くの費用を要する政府のプログラムだけが成功していることを示唆している(Lalonde(1995)などをみよ)。
 これは、[政府による]監督によって、補助金を補完することが必要なことを示唆している。ドイツの実習生制度の場合など、ほとんどの[政府による]監督は、訓練プログラムの質を監視し、スキルを認定している。監督の一つの効果は、会社と労働者が訓練の量を契約する(to contract)ことを容易にすることで、訓練が非協力的に決定される際に生じる外部性を除外することを可能にすることである(Acemoglu and Pischke(1998)などをみよ)。このため、監督は、労働者に対して、彼らが受ける訓練の量に貢献することを可能にし、よって、労働者が訓練にいくらか金銭を支払う余裕がある場合には、もっとも有効なものとなる。同じ論拠によって、監督は、補助金の活用についても、企業が受け取る補助金によって実際に訓練が提供されているかを政府が監視することで、補完するであろう。しかし、監督は非生産的なものであることも心に留めておかなければならない。例えば、使用者はそれらの労働者を保持できただろうことから、最初の使用者に訓練の提供を促す訓練プログラムで獲得されたスキルの価値が、他の会社では不確かであった場合には、例えば、Kats and Ziderman(1990)のモデルのように、スキルの認定は、会社の資金による訓練を減じることになるだろう。*2実際には、特に、ドイツ政府機関が実習生プログラムによって獲得したスキルを認定しているという事実に鑑みて、そのような非生産的な効果はありそうにない。
 オンザジョブトレーニングを推進する政策を考えるにあたって、二つの追加的な検討が重要である。第一に、それらの政策は、特定の産業や職業におけるスキルの不足に対処する上で、非常に効果的である。もし、ニュージーランドにおいて、エンジニアや資格を持った職人の不足が重要な制約となっているのであれば、訓練政策は、産出の拡大と不平等の縮小の双方にとって有効である。第二に、人的資本投資のタイミングについての重要な問題がある。中等教育に対する直接的な政策は、労働者の生活のはやい段階(彼/彼女が十代のとき)で、より多くの人的資本を促す。訓練政策は、一方において、労働者の人的資本をおそい段階で増加させる。他の条件が一定であれば、はやい段階での政策が望ましいだろう、しかし、訓練政策には重要な強みがある。例えば、労働者と会社が正確な競争上の強みと労働者の興味、あるいは、どの領域のさらなる投資が大きな利益をもたらすか、についてわかった後に、そうした投資をはじめることができる。これらのトピックに関する証拠はほとんどないが、常識的には、はやい段階とおそい段階の投資の組み合わせが、労働者が生涯のスキルをつくりあげる上で最適であろうことを示唆する。
 全般的には、訓練を促進する政策は、不平等を縮小する上で極めて効果的なようである。これらが有効であるのは、訓練における過小投資がありそうなためでもある。そのような政策の中で、政府による訓練の直接的な提供は、もっとも魅力が乏しい。このトピックについての実証研究は少ないが、理論的な検討によって、政策のベスト・ミックスは、政府による訓練に対する補助金または課税控除と、訓練プログラムの質を確かなものにする監督の組み合わせであるように示唆される。

(6.3.7節について了)

(注)[ ]内は訳注。“worker”の訳は、「労働者」とした。“technical change”の訳は、「技術と不平等」では「技術革新」を用いたが、ここでは、他のパートとの統一をとるため、「技術変化」とした。

*1:訳者注:ドイツの訓練生制度については、久本憲夫「ドイツにおける職業別労働市場への参入」,『日本労働研究雑誌 No.577』などが参考になりそうである。

*2:この部分の解釈についてはpending。