備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

日本版ニュー・エコノミー論と格差問題(3)

(過去のエントリー)

承前。

新自由主義の影響

 ここまで、日本における所得格差の要因として、ニュー・エコノミーという新たなステージへの移行を指摘する論調について、その依拠する理論的根拠は、日本における現実を適切に説明するものではないことを指摘した。日本における所得格差の要因は、ニュー・エコノミーとはあまり関係が無く、むしろ、景気が停滞する中で、労働需要が縮小したことによって生じた可能性が高いのである。
 ニュー・エコノミーと並び格差拡大の要因として指摘されるのは、近年、新自由主義的な改革が推進されたためというものである。海外の事例についてみると、米国における1980年代以降の格差拡大の有力な説として、税制改革により、所得再分配機能が相当程度弱まったことが指摘されているのは先に述べたとおりである。
 日本においても、確かに、所得税の累進性は弱まり、相続税率は軽減されてきた。さらに近年では、貯蓄から投資への流れを促進させる上から、証券税制の軽減税率が適用されている。
 では、実際にはどうだったのか。(1)税金・社会保険料の拠出、(2)年金・医療等の受給という所得再分配の効果が働く前の所得である「当初所得」と、所得再分配を行った後の「再分配所得」のそれぞれのジニ係数の推移をみると、当初所得によるジニ係数が拡大傾向であるのと対照的に、再分配所得によるジニ係数は、1990年代を通じ、小さな拡大がみられるのみである。日本の格差拡大について、米国の議論を安易にあて嵌めることには留意する必要がありそうである。

 ただし、新自由主義的・市場原理主義的な政策には、国家による所得再分配だけでなく、企業における雇用管理や賃金制度の見直しの動きも含めて論じられる場合がある。こうした議論は、本来、労働需要が縮小したことによって生じた雇用の柔軟化や格差の拡大を別の理屈によって解釈し、企業を避難する動きにつながっている。

新自由主義への批判

 こうした動きを一言でいえば、市場経済の効率性を犠牲にして公平を目指すというものである。格差拡大の要因として彼らが重視するのは、これまで進められてきた規制緩和である。例えば、彼らは、非正規雇用の増加など雇用形態が多様化した主たる理由を、旧日経連が提唱した「雇用ポートフォリオ」の考え方の広まりや、労働者派遣事業規制緩和などに求めている(労働者派遣事業の概要については、10/07付けエントリー参照)。
 近年では、非正規雇用が増加しており、その間、派遣労働も大きく増加した。このため、彼らは、非正規雇用の増加の理由を労働者派遣事業規制緩和に求める。
 非正規雇用比率は、確かに、1990年代半ば以降急速に増加したが、傾向的にはそれ以前から増加している。また、派遣労働者は、非正規雇用全体からみればそれほど多くの構成を占めているわけではなく、仮に規制緩和がなかったとしても、経済の環境に違いがないのであれば、その他の非正規雇用業務請負等、別のサービスを企業が利用する傾向が相対的に高まり、企業の「雇用ポートフォリオ」自体にはそれほどの違いは生じていなかったものと考えられる。このように、非正規雇用増加の主因を労働者派遣事業規制緩和に求める考え方には多くの無理があると言えよう。
 とはいえ、格差問題に端を発する「行きすぎた」市場経済への批判は、ますますその勢いを増しているようにもみえる。こうした動きの背景にある考え方は、社会の紐帯を再構築し、国家や企業など、ある種の中間的な組織体の中での集団性を取り戻し、生活の安定を目指すものとでもいえようか。しかし、こうした向きは、一方で、個人の自由を疎外し、社会の(多数者の)価値観を個人に押しつける意図を持つことも忘れてはならない。
 また、市場経済は、世間で言われるような弱肉強食的「市場原理主義」を意味するものではない。経済成長のフロンティアが未だ残されているのであれば、市場における価格調整のメカニズムがもたらすのは、「誰かの目的を改善させようとした場合、他の人の目的が改悪されてしまうような状態」(パレート最適)である。市場経済という手段と、所得再分配政策等の手段を組み合わせることで、人々の高い生活水準を――社会的弱者のそれを含めて――目指すことが可能になるのである。

既存の諸機構の改革への志向性

 一方、奇妙なことながら、格差縮小のため、さらに新自由主義的・市場原理主義的な政策を推し進める必要があると訴える人たちもいる。この背景には、市場の効率性を高めることが経済の成長力を強め、成長の配分を通じて、社会全体が豊かにするという考え方がある。また、この観点から特に注目されるのは、解雇法制をめぐる議論であろう。雇用の保護規制を弱め、不況時に容易に整理解雇を行うことが可能となれば、好況期において人を雇うことへの足枷を外すことに繋がる。総需要の高まりに応じた雇用の拡大が可能になれば、企業の成長と雇用創出、賃金上昇を通じて、経済のパイの拡大とその配分が実現されることになる。
 強い雇用保護規制は、また、既存雇用者と失業者の利害関係において、前者の方に有利に働く。例えば、高原基彰が論じる「団塊の世代」と若年層の利害の対立という論点は、経済が長期停滞する中で、「団塊の世代」が雇用の場に止まり、企業の労働需要が伸び悩むことで、そのしわ寄せが若年層のフリーター・ニート問題として表れるという経路を指摘する(「不安型ナショナリズムの時代 日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由」)。中高年比率が高まると企業の労働需要が低くなるという論点は、玄田有史も取り上げ、実際のデータからこれを裏付けている(「仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若年の現在」)。このような経路によって広がる格差が、高原の考えるように、経済の発展段階という構造的な要因によって生じているものだとすれば、過去の発展段階に適合した現在の解雇法制を緩和し、現在の発展段階により適合するものに変えていくことによって、格差問題を解消しようという向きがあったとしても不思議ではない。
 こうした向きが求めるのは、解雇法制の緩和だけではない。企業内での教育訓練を中心とする労働者の職業能力開発システムを抜本的に改め、教育段階での職業的意義を高め、若年層における企業間の行き来を確保し、より時間をかけた職業選択ができるよう制度を改めようとの考え方もある。
 高原らの意とは異なるかも知れないが、雇用や職業能力開発の仕組みをより社会的なものとし、雇用の流動性を高め、市場の効率性を回復することを目指す人々の中には、八代尚宏大竹文雄といった論者も含まれる(福井秀夫・大竹文雄編著「脱格差社会と解雇法制 法と経済学で考える」等を参照)。これらの論者に共通して感じられるのは、日本企業や日本社会の持つ共同体的な機構に対する反感のようなものである。つまり、日本はより個人主義に立つ社会を目指していかなければならない――彼らの議論から感じられるのは、市場の効率性の確保や若年層に対する配慮ということ以上に、既存の諸機構の変革に向けた強い意志のようなものである。
 では、彼らの求める日本社会の変革は、現実の経済の成長力や格差を改善してくれるのだろうか――現在の雇用慣行を強制的に改めることは、必ずしも、経済の長期的な成長力を引き上げると言い切ることはできない。100歩譲り仮にそれが可能であったとしても、総需要が高まらずデフレが継続する現下においては、むしろ非自発的失業の増加を引き起こす可能性が高い。若年層における雇用の二極化が確固として存在する中にあって、市場の効率化を進めていくことになれば、さらなる格差の拡大をもたらすのではないだろうか。また、この事実は、政策決定過程にある不都合を浮かび上がらせる。