※追記を追加しました。(09/06/10)
先日のエントリーに関連して─というか、「チンピラ」(爆)のことは無視して─日本の雇用システムについて、もっとまじめに考えてみることにしましょう。先日も紹介した大内伸哉「雇用はなぜ壊れたのか」から、別の一節を以下に引用します。
しかし、こうした給料の引き下げは、法的にはそれほど簡単なことではない。すでにある給料システムを変更するためには、原則として、個々の社員の同意が必要であるし(労働契約法8条)、就業規則という労働条件を統一的に定めている規則を変更することにより給料を一括して引き下げる場合には、厳格な要件(合理性)を充たさなければならないからである(同法第10条)。
このように給料による調整が困難である以上、解雇まで厳格に規制するのは経済合理性に合わないともいえる。しかし、現在の法的ルールでは、経営上の必要性がある場合の解雇(整理解雇)であっても厳格な要件が課されている。すなわち、人員削減の必要性、解雇回避のための努力、解雇される社員の選定の相当性、労働組合など社員側との協議という4つの要素を総合的に考慮して、解雇の有効性を判断すべきものとされている。こうした解雇規制は、経済的に苦況にある会社の経営再建の桎梏になりかねない。
雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 (ちくま新書)
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ブログ界隈ではすでに人口に膾炙した整理解雇の問題について、それ以上の議論を継続するつもりはありません。ちなみに、同書では、整理解雇の要件について上記のような問題提起をするとともに、米国のように『解雇が自由な国』を目指すのではなく、不幸な雇用関係の解消が円満に行われるよう誘導することが、法の目標とすべきことだと指摘しています。
日本的な雇用の柔軟性
さて、ここからが本論です。先日、翻訳を行ったブランシャールの論文にもあるように、経済の成長と国民の生活水準の向上を実現する上で、生産性の向上が重要であることはいうまでもなく、そのための重要な要素が競争的環境であり、また、それにともなうジョブの再配置(リアロケーション)です。ブランシャールの論文では、一般的な印象とは異なり、欧州の雇用創出率および喪失率は、米国と同程度に大きいもので、それが欧州の経済社会モデルのひとつの「支柱」となっていると指摘します。
では、日本の実情はどうなのでしょうか。玄田有史「ジョブ・クリエイション」では、雇用創出率・雇用喪失率の推計を国別に行っており、それによれば、日本のそれは、米国だけでなく欧州主要国と比べても低いものとなっています。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/2009/03/p126_t3-16.pdf
このようにいうと、すぐに日本の1990年代以降の低成長の要因を、規制による競争環境の不備や、雇用保護規制の強さ(それにともなう労働移動率の低さ)に結びつけて議論しがちになりますが、それ自体は否定しきれない要素であることを認めた上で、その一方で、日本に特有の柔軟性というものが存在し、そしてそれが日本経済の強さを形作ってきたことを指摘することも忘れてはいけません。(さもなくば、日本の製造業の競争力は低下していたでしょうし、また、日本の低成長の主たる要因がマクロ経済政策の稚拙さにあったことは、これまで十二分に指摘されてきた通りです。)
日本では、統計上計測される雇用創出率・雇用喪失率が低く、労働移動率が低いということは事実でしょう。しかし、同一企業内の配置転換は柔軟に実施され、その範囲内での雇用の柔軟性は高いものであったと考えられます。長期雇用は、経済の効率性を損ない、生産性を停滞させる要素としてしばしば問題とされますが、日本の長期雇用は「企業内での長期雇用」であり、同一ジョブとしての長期雇用という意味ではないことに留意が必要です。これは、企業内でのオン・ザ・ジョブ・トレーニングを主体とした日本の労働者の教育訓練の仕組みとも、密接に関係しています。
さらに、日本の賃金はボーナスのウェイトが高く、近年ではさらに企業業績との連動性が強まっており、これまでも/あるいはこれまで以上に柔軟に調整することか可能であったと考えられます。この点について指摘しているのが、先日批判的に取り上げた水野和夫「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」(p.29)です。
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賃金だけでなく、労働時間についても柔軟な調整が行われてきました。日本の労働者の残業時間は長く、過重労働はしばしば問題となりますが、これを裏返して考えると、需要が大きく縮小した際の労働時間による調整余地は、非常に大なものであることになります。さらに、国の助成金を活用した休業などによって、製造現場を中心に企業の雇用維持努力がみられたことは、今回の不況の局面でも明らかです。
このようにみると、日本では、企業間の(つまり、外部労働市場としての)雇用柔軟性は低いが、一方で、企業内の(つまり、内部労働市場における)柔軟性は高く、このことが、経済成長を実現し、国際的に比較して低い完全失業率を可能にしてきたということができそうです。*1
ここまでの議論は、このブログにおいてこれまで行ってきた議論の線上にあるもので、それを超え得るものではありません。ここから先は、日本の雇用システムの反面にある弊害と、その先の議論に向けての「補助線」を考えることにします。
日本企業の規模間格差
さて、企業間の雇用柔軟性が低く、企業内の雇用柔軟性が高いことの弊害として第一にあげられるのは、企業間の格差が雇用される労働者の格差に直接的に結びつき、労働者の努力が賃金向上につながる余地が狭まる、ということでしょう。この弊害がより色濃く表れているのは、企業規模間にみられる大きな格差です。下のグラフは、資本金規模別にみた、従業員一人あたりの付加価値額(労働生産性)と労働分配率ですが、資本金10億円以上の企業では、労働生産性は極めて高く、その一方で、労働分配率は低いことがわかります。
(注)労働分配率=人件費÷付加価値、労働生産性=付加価値÷従業員数。データは、財務省「法人企業統計年報」より。
また、従業員一人あたりの給与額は、いうまでもなく、資本金10億円以上が最も高くなります。この格差は、そもそもの企業間の生産性を反映しているものであるため、これを解消することは、企業間の労働移動率が低い状況の下では、著しく困難なものだといえるでしょう。
企業間の雇用柔軟性が低く、企業内の雇用柔軟性が高いということは、新規採用時に大企業に入社した者は、高い労働条件をほぼ安定的に享受することができる一方、中小企業に入社した者は、その後の努力が報われる余地が小さくなる、ということを意味します。さらに、日本的雇用慣行のひとつの要素である企業別労働組合は、労使一体となって事業に取り組むことを促し、このことが我が国経済の成長に大きく寄与する一方で、企業を超えた労働者の「横」の連帯を難しいものにします。世間一般に格差問題といわれますが、その多くの文脈で語られているものとは異なり、この企業規模間の格差こそが、私見では、格差の問題にとってより重要な要素であるように思われます。
また、企業間の格差を雇用される労働者の格差へと直接的に結びつける契機となるのが、賃金交渉における「生産性基準原理」という考え方です。生産性基準原理についての詳しい説明については、下のエントリーをご参照ください。
この生産性基準原理について、都留重人は、「経済学入門」*2の中で、次のように語っています。
産業間の生産性上昇率の違いは、商品間の相対価格の変化となってあらわれるように市場がはたらき、こうして生産性上昇は、そのまま消費者に伝えられるし、産業内企業間の生産性上昇率の違いは、当初は先進的企業の超過利潤を生むが、おそかれ早かれ、新機軸は産業内で普遍化して、当該商品の価格を引き下げ、ここでも生産性上昇が消費者のこうむる恩恵となってあらわれる──これが古い時代の原則であった。
これにとってかわって、いまや生産性上昇の恩恵は、当該企業や当該産業に属する資本家と労働者で分けられてしまい、依然として有効である賃金決定の平均法則が貫かれるためには、物価水準の上昇という形をとらざるをえず、それにはそれで抵抗もあるし、ひずみも生ずるという事態が、私たちの社会を特徴づけているのである。
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ここにいう「古い時代の原則」が機能するためには、財市場における競争的環境が確保されると同時に、市場経済の中で、雇用=ジョブの再配置が盛んに行われることも重要であるといえるでしょう。日本的な柔軟性は、雇用の安定を通じて労働者(=消費者)の効用を高めますが、その一方で、生産性基準原理を通じ、企業間の格差が、そのまま労働者の格差として維持されることになるわけです。
では、格差を温存する日本の雇用システムは破壊されるべきで、(某大先生らが盛んに指摘するように、)雇用=ジョブの流動性を高めるべきなのでしょうか。実際問題、どのようにしてこれを可能にするかという議論がまずは必要ですが、この議論をいったんおくこととし、仮にそれが可能であるとした場合、雇用の流動化は、日本の雇用システムがもつ雇用維持の機能をもあわせて失わせることになります。しかも、例えば、この不況下において真っ先に解雇の憂き目にあうのは、格差社会の高位に位置する大企業雇用者などではなく、地方などの生産現場で働く者が中心となるでしょう。
議論のための「補助線」
企業間の雇用柔軟性が低く、企業内の雇用柔軟性が高いという意味での日本的な柔軟性を維持しつつ、格差への不満に応えるための方策はどこにあるか─ここでは、そのことを考える「補助線」として、2つの議論を取り上げます。
1つ目の補助線は、アルバート・ハーシュマンの議論の援用です。
ハーシュマンは、衰退企業からの顧客の「離脱」が当該企業を淘汰し、適者生存の原理によって経済成長が可能になるとのビジョンが重視されがちな経済学に対し、「発言」というメカニズムによって企業が内部から改善され、経済成長が可能となるというビジョンも同様に重要であることを指摘しています。また、近年では、「発言」は、競争圧力が強い環境で機能し、競争と「発言」は代替的であるというよりはむしろ補完的であるとも指摘されています。*3これらの考え方を援用すれば、日本の長期雇用システムの中に従業員の「発言」と「離脱」の機会をバランスよく配備することによって、それが改善されていく契機が生まれると指摘することは可能でしょう。
もうひとつは、企業を超えた労働者の「横」の連帯を可能にする仕組みです。あらゆる労働者がそのメンバーとして承認されるような、連帯的な関係が構築されるとともに、政策決定過程において、企業と労働者双方の代表性を持つ者が関与する、本来の意味での三者構成原理を実現することが必要となるでしょう。特に、職業能力開発や失業保険システムに対する労働者の関与は、重要なものといえます。こうした原理は、広い意味での「コーポラティズム」であるとみなすことができるでしょう。
あるいはそれだけではなく、社会全般にわたって、労働者=消費者の「横」の連帯を可能にするような仕組み(地域や宗教を通じたものなど)を考えていくことも意味がありそうな気がします。
先日も引用した稲葉振一郎「労使関係史から労使関係論」から、関係のありそうな記述を引用してみます。
このようにして労働者組織の定義を、「個人」としての労働者から出発するのでもなく、また労働組合の不完全な形としてでもなく、それ自体として行うことができる。すなわち、労働者組織とは「個人」に対して労働者としての「人格」を承認し、「個人」を労働者たらしめる組織の一つである。それはその成員間の労働者としての「人格」の相互承認関係……互いに等しく承認する主体であり、承認される客体であるところの「人格」を有する労働者である……、すなわち団結を軸とした上で、更に経営、国家に対して、成員に労働者としての「人格」のあることの承認を要求する組織のことである。ここで更に、自らの組織が「人格承認要求」の特権的な担い手であることの承認を国家や経営に対して求めるならば、少なくともそれは佐口氏の言う「擬似労働組合」ないしは労働組合であろう。これが国家の法的枠組の下で、争議権をも含めた形でその特権を承認されていれば、これが産業民主主義下の労働組合である。経営や国家も「個人」に対して労働者としての「人格」を承認し、「個人」を労働者たらしめる機能を有する(その意味で、労働者組織はあくまでも「「個人」を労働者たらしめる組織の一つ」でしかない)が、それらと労働者組織との差異は、団結、すなわち成員間の労働者としての「人格」の相互承認をその組織原理としているかしていないか、である。労働者組織は単に事実的に成員間の相互承認に拠って成立しているのではなく、団結を公式に組織もくぎょう(ママ)とせねばならない、すなわちそれを自己定義に組み込まなければならないのだ。これを代表機能と言い換えてもよい。組織の存在自体が、成員の労働者としての団結を表現するものでなければならないのだ。これに対し経営にせよ国家にせよ、労働者の人格を承認すること自体はその自己定義の不可欠の構成要因ではない。経営にとってはいわゆる「資本の論理」であるかも知れないし、あるいはまた「企業家精神」であるかもしれない。ひょっとしたら「従業員の福祉」であるかも知れないが、確かにその中に「人格承認」が入る可能性はある、しかし必然性はない。
換言すると、労働者組織の場合は、組織のアイデンティティの確保に当たって成員による組織の承認が不可欠であるのに対して、経営や国家においては必ずしもそうではない。それゆえに労働者組織が成員に対して承認する労働者としての「人格」と経営や国家によるそれとでは、その内容において相違が出てくる可能性がある。すなわち、労働者組織の方が、より組織原理そのものを支える能動的な主体としての「人格」を成員に対して承認しまたそれを必要とするのに対して、経営や国家においては、より組織のアイデンティティに関わらない範囲での、受動的な「人格」をしか認める必要がなく、また認めようともしないであろう。佐口氏が剔抉した、国家が経営よりも労働者に対し能動的な主体性を容認しまた要求したという事実も、それは東條氏流に言うところの「現代国家」的局面に限られるものであり、また当然それは労働者組織の要求する「人格」とは大いに異なったものであった。そのことは産業報国会における、労働者と経営を共に巻き込むものとしての「勤労」イデオロギーの性格の内にも明らかである。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/rousi_.htm
これらの方向性から議論を深めることは、日本的な「社会経済モデル」をいうものを再構成し、さらに変化させていく上で、役立つものとなるように思います。
(追記)
この追記は、主にid:sunafukin99 さん向け。大企業の教育訓練の仕組みが労働者の職業能力をより大きく高め、そのために生産性が高まり賃金も高くなった可能性についての実証研究があるかどうかは不明です。ただし、企業規模間の生産性の違いは、主として資本装備の違いによるものであるため、そうした傾向が仮に実証されたとしても、大きなものではないように思われます。
なお、労働者の学歴や産業構成等の属性をコントロールした後の賃金水準の企業規模間比較は可能です。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/kako/documents/14_p161-192.pdf
(注)20(/32)頁のグラフを参照。ただし、企業規模のとり方は、資本金規模ではなく従業員規模。
これによれば、属性をコントロールした後の指数(ラスパイレス指数)では、通常の指数でみた場合よりも企業規模間の格差が縮小しますが、依然として格差は残っており、しかも、1995年から2007年にかけて格差は拡大しています。