ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

「複線型」雇用システムの可能性

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 前稿では、統計の結果をもとに、以下の二つの結論を導いた。

  • 中高年層の高学歴化は今後さらに進む。このことは企業に対し単位労働コストの上昇という形で影響。現在の賃金水準を維持する上で、コスト上昇分に見合う労働生産性の増加が必要。
  • 25~29歳台の賃金に対する中高年層の相対的な賃金低下は、世代ごとにみれば、就職氷河期以降もさらに進む。

 最初の結論は、企業の雇用・賃金管理に係る予測し得る課題であり、二つ目の結論は、これまでの傾向からの予測である。労働生産性を高めるには技術革新や資本装備率の(適切な)向上が必要であり、(労働生産性の増加が望めず)単位労働コストの引き下げが必要となれば、働く者の納得を得る上で、賃金の(職務カテゴリーごとの生産性に応じた)個別化が進むとも考えられる。
 一方、上述の結論から、25~29歳台の賃金は中高年の賃金と比較し相対的に上昇しているとも指摘できる*1。前々稿にて指摘した高学歴ならぬ「高偏差値」層の若年者にみられる一般的な新卒者とは異なる入職傾向は、日本の雇用システムに「複線型」の仕組みをもたらす「兆し」ともとれ、また若年者の賃金が相対的に上昇する方向性とも整合する。

「複線型」の雇用システム

 ここで「複線型」という言葉を用いたのは以下のような議論を踏まえている。2017年公刊の労働政策研究・研修機構のプロジェクト研究を要約した高橋康二『日本的雇用システムのゆくえ』(JILPTリサーチアイ 第25回)*2では、「少なくとも日本的雇用システムの「本丸」である製造大企業においては、正社員の長期雇用慣行はおおむね持続している」とし、非製造業においても離職率は大きくは増加しておらず、労使ともに長期雇用を守ろうとする意向がみられるとしている。一方、近年の労働法制の見直しに伴う「長期雇用の範囲の再拡大」が生じる可能性や、年功的処遇の変化と今後の一層の見直しの可能性が指摘されている。

 このように長期雇用は引き続き維持ないし拡大される可能性が高い一方で、つぎのような指摘もできる。ロナルド・コース、ダグラス・ノース、ハーバート・サイモン、オリバー・ウィリアムソンといった経済学者は、市場で取引を行う際、取引相手の探索、価格交渉、契約履行の確保等のために必要となる費用である取引費用という概念を重視する。

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取引費用が存在しない場合、製造工程を最小単位に分割し、それらの工程別に組織化された企業間で市場取引を行う方が、製造工程を統合して内部組織とするよりも、市場の価格調整メカニズムによって資源がより効率に配分される。

 しかし自動車産業のような業種は、製品アーキテクチャーの複雑性が高い「摺り合わせ」型であることが指摘されており、この場合、製造工程の垂直的統合の強みは維持される。これは製造工程間の取引費用が高く、これを個別に組織化することは非効率であることによる。

 一方IT産業を含むエレクトロニクス産業では、製造工程における「摺り合わせ」の領域が縮小し、一定の機能をまとめた「モジュール」の組み合わせによる領域が拡大する「モジュール化」が進んだことが指摘されている。「モジュール化」が進むと、各部品・中間財の連結部分(インターフェイス)が標準化されるため、これら部品・中間財に係る製造工程間の調整が容易になり、垂直的統合を維持することの必要性が低下する。すなわち製造工程間の取引費用は縮小し、これを個別に組織化する方が効率的となる。
 なお、先にリンクした藤本『能力構築競争』は2003年の刊行である。近年は自動車産業においてもオープン・アーキテクチャー化が進んでいるとされ、研究開発段階に関しても、トヨタ自動車がAI分野に強みを持つユニコーン企業へ多額の出資を行うなどの動きがみられる*3

 この議論を雇用システム論に接続するとつぎのようになる。日本の(伝統的)雇用システムは、入口が新規学卒者の定期採用に限られ、それが下位の職務を形成し、上位の職務は昇進・配置転換により内部から補充される「内部労働市場」を基調とした。またその中で、オン・ザ・ジョブ・トレーニングにより、企業特殊熟練を形成してきた。しかし「モジュール化」が進むことで取引費用が低くなると、入職する前段階での一般的な職業訓練や職務カテゴリー別の外部労働市場の強みが増す。企業の中長期戦略は雇用システムとの「制度的補完性」を確保する必要があり、このことは、将来的に長期雇用と職務カテゴリー別外部労働市場が併存する「複線型」の雇用システムとなる可能性を示唆する。

 上述の高橋論文では、労働法制の改正に伴う「長期雇用の範囲の再拡大」に関し、つぎのように述べる。

 もっとも、その再拡大部分のすべてが、従来と同じ意味での正社員とは限らない。特に、限定正社員や無期雇用化された社員の賃金水準は、従来の正社員のそれとは異なることが予想される。より正確に言うならば、生じる可能性があるのは、あくまで長期雇用の範囲の再拡大であり、従来の正社員の範囲が再拡大するかは分からない、ということになる。

 現段階では物語の域を超えないが、「複線型」の雇用システムの中での長期雇用も、これと同様、いずれは従来の「正社員」とは異なるものとなると予測する。新規学卒と中途採用の「境目」が今後しだいに曖昧化し、また若年者の賃金が相対的に増加、勤続に伴う賃金の年功要素が弱まる中で、「正社員」というカテゴリー自体、見直しが迫られることになる。

労働供給側からの視点

 前々稿では、このところの(日本版)ジョブ型雇用をめぐる動きは、労働供給側の変化を踏まえ、日本の雇用システムの入口における変革を意図したものである可能性を指摘した。これと併せ、上述の通り、賃金の(職務ごとの生産性に応じた)個別化が進み、年齢階級別の(平均値としての)賃金に傾向的な変化が現れるだけでなく、年齢階級内の賃金の分散も大きくなる(可能性がある)*4。日本の賃金格差には、企業規模等の違いによる「企業間」格差があり、これは従来通り残るとともに*5、今後はこれに加えて「企業内」の格差が拡大することになる。

 加えて賃金の個別化は、同一職務のカテゴリー化を促進することで、当該職務カテゴリーに係る企業間賃金比較を容易にする。これまでも、外資系企業の中途採用に関わるエージェント等には個別企業の賃金情報が蓄積されていたと考えられるが、近年はネット上でも可視化されつつある。職務カテゴリー別の賃金や他の労働条件に係る情報の透明性は、職務カテゴリー別外部労働市場の形成を後押しする。
 そこからさらに、つぎのような予測が出来る。濱口『ジョブ型雇用社会とは何か』では、トレイドとジョブの違いについて、「トレイドは職人たち自身が作り上げ維持している職域であるのに対し、ジョブは会社がその事業を区分けし、個人単位まで分解したもの」であるとしているが、「高偏差値」層の若年者にみられる一般的な新卒者とは異なる入職傾向から窺える将来像は、働く者の「縦」(企業内)の関係よりも「横」(企業間)の関係が強まるジョブ型ならぬ「トレイド型」とでもいうべき姿である。若年者を中心に、企業に自らの生活を委ねることのない働き方ができるようになり、それは自らの希望に沿うものでもある*6

 このように考えを進めると、法や制度に係る議論にも違った視点が必要になる。先に取り上げた高橋『日本的雇用システムのゆくえ』では、「製造業の大企業への転職者割合はほとんど増えていない」とされている。今後については、職務カテゴリー別外部労働市場における情報の不完全性が弱まることで市場の効率性が高まり、総じて転職者は増加する(可能性がある)。そのような動きが明確になれば、政策ウェイトも雇用維持型から就職支援型の方向へシフトする。
 また労働紛争について、近年、個別化が進んでいると指摘されるが、働く者の「横」の関係が強まれば、集団化への回帰、特に地域の閾を超えた集団的労働紛争が増加する(可能性がある)*7。「横」に連携する働く者の集団と企業業種間での賃金をめぐる交渉や、それを調整する法制度上の仕組みは、公正賃金を測る物差しとしての役割を持ち、理念としての「労働市場」に実体をもたらす存在ともなる(かも知れない)。

 まとめると、今後、労働法制の改正に伴い非正規雇用(の一部)は長期雇用に包摂される*8一方、「高偏差値」層の若年者などはそこから逸脱し、職務カテゴリー別外部労働市場を通じ雇用の安定を確保する。賃金は、これまでとは異なり、離職確率、すなわち失業リスクの大きい者ほど賃金が高くなるという、リスクプレミアムを反映するものとなる。

*1:若年者の中高年に対する希少性を反映する傾向ともとれる。

*2:https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/025_171222.html

*3:https://global.toyota/jp/detail/10680141

*4:現時点では、統計上そのような傾向はみられない。

*5:資本金規模別の人件費格差は、財務省『法人企業統計』によって確認できる。労働生産性に寄与する資本装備率は規模による格差が大きく、企業それぞれでも異なり得る。

*6:同書には、ところどころで働く者の生活や労働条件決定を企業に委ねることへの懸念を感じさせる表現がある。

*7:この点についても、現時点では、統計上そのような傾向はみられない。

*8:正規雇用は、これまで企業にとって景気循環に応じたバッファーの役割を果たしたが、今後は、むしろ景気拡張期に雇用が確保できないリスクが大きくなる。