ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ジョセフ・スティグリッツ「倫理的なエコノミスト」(2)

(前回のエントリー)

 下記の書評翻訳の続きです。*1


半歩の前進と躓き

 グローバリゼーションの貧困への衝撃に関する議論において、フリードマンは、たとえグローバリゼーションが国内の不平等の拡大と結びついてきたとしても、グローバルには貧困と不平等の削減につながる、との見方を支えてきた。その分析には3つの不備がある。第1は、貧困の定義に関係する。世界銀行が様々な観点から強調しているように、貧困は単に所得の問題ではなく、不安定と声を出すことができないことも、その要素の一部にある。フリードマンの分析は、完全に、これらの次元を無視している。
 第2の批判は、何がグローバリズム本来の問題とはいえず、特別な政策にともなわれたものなのか、という点に関係する。例えば、資本市場の自由化は、資本市場の密接な統合を、特に短期資本の移動に対してもたらす。近代の経済理論と実証分析は、不完全な資本市場のもとでは、その様な統合は大きな経済の変動──その結論は、いまやIMFですら支持している──と、成長に対する些細な効果につながることを示してきてきた。またさらに、貧困層が拡大する変動による負荷の矢面に立つことについての、有り余るほどの証拠がある。要するに、経済統合のこの側面は、成長に影響することなく貧困を拡大する。
 第3に、フリードマンは、多くの批判にさらされてきたザビエル・サラ・イ・マーティン(「世界の所得格差の悩ましい拡大[The Disturbing "Rise" of Global Income Inequality]」)とSurjit Bhalla(「国のない世界を想像しよう:グローバリゼーションの時代の貧困、不平等と成長[Imagine There's No Country: Poverty, Inequality, and Growth in the Era of Globalization]」)にあまりにも依存しており、彼らの数値にかこまれた議論を読む者に注意を与えていない。(査読付き学術誌に掲載され、その結論が、メディアでオウム返しのように語られている記事であることが、自動的にその正当性を保証するものではないことは、いっておくべきだろう。)問題は、言うのは簡単だが、修正するのは難しいことだ:不平等と貧困の研究は、支出と収入に関する家計調査に基づいているが、これらの研究から収集される数値は、国民所得会計と矛盾しがちで、家計調査の結論はかなり過小に報告されたものであることを示唆する。この食い違いのひとつの単純な解決方法──サラ・イ・マーティンとBhallaの研究が広く使用するアプローチ──は、家計調査の数値を膨らませることである。もし、報告された平均所得が3千ドルで、国民所得会計の平均所得が4千ドルを示す場合、全員の報告された所得を3分の1引き上げる。これでは、貧困に生きる人々の数を、すぐさま削減することになる。
 しかしながら、より洗練されたアプローチでは、高所得の個人は、貧困にある個人よりも、税務署員のことを心配するということが観測される。この見方によれば、高所得層で過小報告が広く占められ、家計調査による貧困者の報告の数値はおおむね正確である。報告“誤差”の評価は、この見方──この見方では、世界は、2015年までに、貧困を半分に削減するという目標を達するまで、まだ先が長い──を支持する。(この問題の両サイドの議論については、Initiative for Policy Dialogueから提供される予定の、私がポール・シーガル、sudhir anandと一緒に編集した冊子「貧困の計測に関する議論[Debates on the Measurement of Poverty]」を参照。)
 その間にも、成長はそれとともに大きな開かれと寛容という美徳をもたらすとするフリードマンの主張は、つぎのような疑問を招く:米国は、豊かになるにつれ、より開かれた寛容な社会となっただろうか。開かれと寛容は、現代科学と前−啓蒙主義的な見方に、平等に重きを置くことになるのか。
 しかしながら、フリードマンの主張は、貧しい国々では民主主義はあまり持続的ではないという点において正しい。つまり、もしブッシュが民主主義を広めるという彼の約束に真剣であったら、彼はこれらの国々の開発により多くを投資し、全ての先進工業国家によるGDPの0.7%を海外援助に委ねるとする合意に沿って行動したであろう。投資された金は、発展途上の世界の生活の質と、民主主義の見通しの双方に、大きな違いを生んだであろう。もちろん、より多くの金以上のものが要求される:成長と民主主義の果実をその全ての人々にもたらすことができる、開かれた寛容な社会の成功事例以上に説得力のあるものはない。もし米国が、自分自身の面倒をみることなくして、そのような事例を提供するとどうして主張することができるであろうか。

見えざる手の神話

 米国のエコノミストは、政府の介入を提唱することについて、強い嫌悪感を持つ傾向がある。彼らの基礎的な仮定は、多くの場合、市場は通常それ自身で働き、市場の失敗を正すため政府の行動が必要となる瞬間は非常に限られたものでしかない、というものであり、政府の経済政策は、経済の効率性を保証するための最低限の介入であるべきだ、と考えを進める。
 この仮定の知的基盤は脆弱である。不完全・非対称情報と不完備市場のもとでの市場経済──つまり、全ての市場経済──において、アダム・スミスの見えざる手が見えない理由は、それが存在しないからである。エコノミストは、自分自身において効率的ではない。この認識は、政府には潜在的に重要な役割があるという結論に、否応なく導かれる。
 フリードマンは、良心的な米国のエコノミストとして、通常の批判に対し敬意を払うことから彼の議論を始め、外部性を、政府の介入を正当化する根拠の一種として確認する。彼は、続けて、物的資本と人的資本の双方に対する投資の重要性を指摘し、巨額の財政赤字(政府部門の「負の貯蓄」)は、これらの投資を痛めるものだと注意する。完全市場のエコノミストは、この主張をナンセンスだとして退ける:民間貯蓄は、最終的に政府の負の貯蓄を埋め合わせるように増加し、もし現在、市民がより多く消費し、より少なく貯蓄することを望んでいるならば、それは彼らの権利である──フリードマンが今日少なく消費することを望むことが、彼の選好を残りの我々に押しつけることが認められるべきだということを意味するものではないように*2──とする。さらに、そうしたエコノミストは、グローバル化された世界では、国内の貯蓄が問題なのではなく、グローバルな投資需要と供給のバランスが問題なのだというだろう。
 恐らくフリードマンは、こうした見方に反論することに多くの時間を費やさない、なぜなら、学術的論争における彼らの重要な役割にもかかわらず、彼らは明らかにとてもばかげているからである。もちろん、民間貯蓄は、1対1に政府の負の貯蓄を埋め合わせてはこなかった。もちろん、グローバル化された世界においても、国内貯蓄は国内投資に関係している。しかし、完全市場モデルによる見通しがこれほど不十分なものであることの理由を把握することは重要である:市場の失敗は、外部性にとどまらない。市場の限界を理解することは、成長を促し、それを正しい種のものするのを確認するために、政府の役割が必要であることを理解することにつながるのだ。
 例えば、政府が科学技術を促す役割は、フリードマンが示唆しているであろうことよりも大きい。経済諮問委員会の報告(私が議長であったときに行ったもの)では、科学技術に対する公的投資の利益は、これらの分野での民間投資や生産設備における慣習的な投資の収益よりもかなり大きいことを発見した。教育についても同様であり、特に、これは同時に米国の学校の質に関わるものであり、特に、低所得家庭のための教育についてそうである。バウチャー──それはつまり、我々の初等・中等教育の部分的な民営化を意味する──は、教育の質の低下に対する自由市場的解決策として推奨されてきた。しかし、バウチャーの提唱者は、それを、単にバウチャーを受け取る者だけでなく全体的な教育システムの中で、より高い教育の達成と、より大きな民族的統合を促すように設計することが可能であることについての、確信的なケースを示すことは決してなかった。
 フリードマンの本は、よって、一般大衆向けの反成長的活動や自由市場が我々が必要とするものの全てであると語る人間に対する重要な解毒剤である。またそれは、米国の経済政策の方向性を変えること──より強く持続的な成長を達成する方向へ──を求める湧き上がる唱和に加わるものである。フリードマンの特殊な政策の処方箋に賛同するにしてもしないにしても、つぎのことは明らかである:この種の道理的な分析は、米国を正しい路線へと戻すために、確かに必要とされるものである。

(了)

*1:著作権上の問題等が判明すれば、友人限定のmixiに移行する予定です。

*2:pending.