ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

広井良典『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』

※文章を修正しました。(05/16/10)

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

 広井良典は、2001年に出版された『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』の中で、日本の社会保障について、(1)社会保障給付費がおおくの先進諸国に比べて相当に低いこと、(2)社会保障の比重が年金に偏っており、失業や子どもに関連する給付が少ないこと、(3)その財源において税と保険が渾然一体となっていること、という特徴があることを指摘し、これからの社会保障のあり方として、年金だけでなく医療・福祉を重視するとともに、高齢者だけに偏ることなく個人のライフサイクルを座標軸としていくという方向性を模索すべきたとしている。経済が厳しい不況下にあった2000年の半ばにあって、現在でこそおおくの人の関心を集めるようになった社会保障制度に関し、上述のような先見的な問題点の指摘を行ったことは、高く評価されるべきであろう。実際、同書はおおくの人の関心を集めるものとなった。
 しかし、同書がおおくの人の関心を集めたのは、むしろ、我が国経済と社会の将来について、独特のビジョンを示すものであったことによる。社会保障についての上述の指摘もまた、この将来ビジョンにともなう必然的な帰結であるとみなすことができる。
 そのビジョンとは、「定常型社会」というコンセプトによって表現される。定常型社会とは、経済の「自然的制約」というものを強く意識し、経済成長には終わりがあるという認識によって導かれるもので、そこでは、モノやエネルギーの消費が一定となり、経済の量的拡大を基本的な価値ないし目的とせず、ひいては、「変化しないもの」(自然、コミュニティなど)に価値をおくことになる。広井によれば、古典派経済学の時代には、経済の自然的制約は強く意識されていた(同書では、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』の中の一節を引用)。しかし、産業革命が経済の成長力を大きく高め、経済学では新古典派の時代となり、価値の基準が個人の主観的な効用におかれるようになると、市場を取り巻く外部環境との関係によって認識される自然的制約は、市場内部における「希少性」へとおき換わることとなった。

 経済は、つねに成長するものであって、成長することが善きことであり目的とされるべきものである、というのは、一般的な通念である。しかし、その通念は確たる根拠を有するものではなく、また近年では、地球環境問題がグローバルな課題となる中で、豊かさの拡大は地球環境への負荷を高めるということも指摘し得る。単位時間あたりの消費を高め、ひたすら経済が成長することに価値をおくこれまでの一般的な通念を改め、むしろ、「時間の消費」、すなわち余暇により大きな価値をおくことが求められており、そうした方向性からみた究極的な将来ビジョンとして、定常型社会が提唱されることになる。
 ただし、経済が成長しなければ、限られたパイを経済主体が取りあうことイコール経済活動、ということになる。つまり、定常型社会は、ゼロ・サム的な経済活動を前提とした社会である。しかしながら、広井は、だからこそ所得再分配によって経済的格差の拡大を抑制するとともに、社会保障についての議論を進めていくことが重要なのだという。

 だとすれば、これは一つの「ゼロサム・ゲーム」的な要素をもった社会(つまりある個人の取り分の増加が別の個人の取り分の減少を不可避的に意味するような社会)であり、実は現在の日本はすでにこのような社会になりつつある。このような社会において、もしも「セーフティ・ネット」が十分に存在しないとしたら、人々は何か新しい試み──ベンチャー企業であれ新しいNPOの設立であれ──をすることに対して消極的になり、あるいは“萎縮”した行動しかとれなくなってしまうだろう。あるいはまた、人々は既得権益固執したり、自分が現在身を置く“業界”にしがみつきながら(固定的な公共事業のように)既存の利益を手放そうとしない、といった事態が強まっていくだろう(現在の日本はすでにそうなっている)。
 だからこそ、(中略)失業保険の拡充や生活保護などを含めて、社会保障制度を通じたセーフティ・ネットの整備はより重要な課題となる。つまりそれは「個人による新しい事業や創発的な活動の試み」と「マクロの消費量が成熟化ないし定常化に向かう社会」ということの両者を両立させる鍵でもある。このような意味でも、「定常型社会」においては「セーフティ・ネット」(としての社会保障制度)の重要性がきわめて高まるのである。それはセーフティ・ネットという言葉の(静的な)語感とはむしろ逆に、個人や社会の流動性や変化を可能にする条件となる。

 経済成長の「帰結点」で、もし、生活者の物質的なニーズがすべて満たされ、これ以上、経済の効率を高めていくことが要されず、減価償却を超えた)新たな設備投資によって資本の量を高めていくことを必要としない社会となれば、人々の価値観は大きく変化し、余暇の価値は高まることになるのかも知れない。これは、ジョン・メイナード・ケインズが当時から百年後の2030年の先進国の姿を想像して語った「経済的至福」(”Economic Bliss”)という言葉に重ね合わせることができる。 (ジョン・メイナード・ケインズ山岡洋一訳)『説得論集』に収録された『孫の世代の経済的可能性』による。)
 経済的至福が実現すると、経済が数量的に成長する必要がなくなり、経済の効率が高まることは、労働時間の短縮(余暇の増加)を意味するようになる。これは、労働時間あたりの所得が高まることでもあり、それによって、労働の価値の向上を認識することができる。

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 だが、現実をみれば、経済の効率はおおよそつねに高まり続けるものであり、経済の量的な拡大によって、生活者は新たに生まれるニーズを満たしてきた。資源に制約が生じれば、市場の需給調整が働くことでそれを効率的に配分し、また、新しい資源を探し求めることによって、自然的制約を克服してきた。いいかえれば、広井自身のいう「環境効率性」(1単位あたりの自然の利用あるいは環境への負荷から得られる効用)を高めることによって、市場での交換を中心におく経済は、古典派経済学の時代に考えられてきたような限界を迎えることなく、いまでも継続しているのであり、総じていえば、生活者の豊かさはより大きなものとなってきたのである。

 翻って、我が国の経済を考えてみると、1990年代降、総じてみれば経済成長は低く、特に、名目でみた国内総生産はほとんどゼロ成長を継続している(実質、すなわち数量でみた国内総生産はその拡張期を幾度か経験している)。このような意味で経済規模が不変な世界を、本稿では「定常的世界」とよぶことにしたい。日本は、図らずも、1990年代以降、経済の定常化を実現したことになる。しかしその世界は、ケインズがいうような「経済的至福」にはほど遠く、労働時間の短縮は労働の価値を高めることなく、むしろ完全失業率は高止まり、経済的格差は拡大している。すなわち、定常的世界は、実際には、生活者であり労働者でもある人々に対して大きな弊害をもたらしてきたのである。

(以下省略)