ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

川本隆史『現代思想の冒険者たち23 ロールズ 正義の原理』

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)

 本書は、ロールズの主著である『正義論』を中心におき、『正義論』以前の著作から『正義論』を経て、その後の論争、そして『政治的リベラリズム』に至る一連の流れにおいて、その思想の変遷を著者自身の見方・思想を交えつつ論じるロールズ評伝である。

 著者は、後に『正義論』で定式化される格差原理(社会的・経済的不平等は、それらの不平等が、最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化するものでなければならない──生まれつきの才能の分配状態は社会全体の共有資産であり、その分配がもたらす便益を分かち合うことを求める原理)の源泉を、少年期における米国の政治運動の中にあった風潮や、自らの恵まれた環境という実感に結びつける。

 彼の素朴な実感はのちになって、みずからの努力で勝ちえたのではない才能や親の資産のめぐりあわせを「道徳的な観点からは根拠のない専横である」と見切り、それらの分配状態を「社会の共通資産」だと考えようとする独特の正義構想へと結実していったのである。

 また、『正義論』における主要な概念や手続きは、それ以前の著作等の中で、すでに形成されつつあったことがわかる。『正義論』への一里塚と著者がみなす論文『公正としての正義』では、第一に、実践に参画するないしそこから影響を被る人々は全員、すべての人々の同等な自由と相容れる限りで、最も広範な自由に対する平等な権利を要する、第二に、不平等は、それが全員の利益になると期待することが理にかなうないし不平等にともなう種々の地位や職務が全員に解放されているのでない限り、恣意的で根拠がない、という「正義の二原理」が述べられ、その第二原理から功利主義が批判の対象となる。
 この論文は、「正義原理をアプリオリな理性の原理から演繹するのでも、直観を持ち出して正当化するのでもなく、〈原理が生じてくる状況と条件〉を考察すること」を主題とする(ロールズ流“正義の系譜学”)。またその後の論文では、「原初状態」という言葉が初めて用いられ、「正義の二原理」を正当化するため、「複数性」の概念が使用される。本書には、つぎの、ロールズ自身による文章が引用されている。

 正義の概念が人々の〈複数性〉を根本的なことがらとするのに対して、社会的効用の概念〔=功利主義〕はそうみなさない。それゆえにこそ、両者は明確に区分される。功利主義は効用の総和の最大化を求めるだけで、それが人びとの間でどのように分かちあわれるのかには無頓着である。功利主義の考え方だと、一人の人にとっての合理的選択の原理が複数の人びとが関わっている事例にまで拡大適用されてしまう。たしかに当事者が一人ならば、いま手にしている利益が自分自身の過去あるいは将来の損失を補填してくれると推量しても妥当だろう。だが、正義は人びとの間でこれと類似した推論がおこなわれ〔ある人の不利益を他人の利益で埋め合わせ〕る余地をまったく認めない。複数の人びとが存在する場合には、自分たちの間で、自分たちがそれに従って複数の制度からどれを選ぶかを決定するための〔正義の〕諸原理を構成しなければならないのだから。

 「原初状態」という言葉は、後に『正義論』の中で、「そこで得られる基礎的な合意が公正であることを保証してくれる、適切な初期現状」として定義され、これはロールズの〈正義は「しっかりした道徳判断」と「道徳原理」との相互調整過程を通じて達成される〉(反照的均衡)という現代的な社会契約説にとっての基盤となる。『正義論』では、基本的自由の平等な分配として定式化された正義の第一原理と、公正な機会均等および格差原理として定式化し直された正義の第二原理が、「正義の一般的構想」として採択される理路が検討され、「無知のヴェール」(当事者同士の差異が自らに知らされていない状態)を被せられた「原初状態」において、不確実な状況で最大限よい状態を選択するマキシミン解として「正義の二原理」が選択されることが論じられる。また、この過程で前提とされる「自由な人間」の存在は、その必然として、功利主義に対する批判を生むことになる。

 原初状態の契約当事者は、固定した効用関数の持ち主で、その値をひたすら最大化することにしか関心がない、とみなすわけにはいかない。当事者たちは、自由な人間として自分の目的を組み替え、変更する自由が維持できるような生き方の実現に「最高度の関心」を向けている(中略)。功利主義的学説の欠点は、不偏性=公平性を追い求めるあまり、それを没人格性=非人称性と取り違えているところにある(中略)。

 「しっかりした道徳判断」によって、「原初状態」から「正義の二原理」が選択されることは、ロールズにとっては契約の手続きであるが、功利主義では、そこに「公平な観察者」という仕掛けを設ける。あらゆる人間に同感(共感)する能力を有する「公平な観察者」という仕掛けが、固定した効用関数を設定することを可能にする。

 ロールズでいうと前者[引用者注:社会における道徳の役割についての理論]は、「善の希薄理論」に基づいており、善い生き方の中身にまで道徳は立ち入れないから、各人の善い生活を可能にしてくれる社会の枠組みの正義が主題となる。また社会を構成するメンバーのもつどのような特徴が道徳に関係するのか、についての理論が「人格の理論」であり、ロールズでは〈自由かつ平等な道徳的人格〉が社会を構成するというカント的な理解が打ち出される。すなわち、人びとは自分で幸福な人生を設計する能力を持っているという点で自由であり、同時に社会生活を営む上で公に認められた正義原理に従う能力(正義感覚)を全員が等しく備えている点で平等である、と。
 これに対して幸福の総量を問題にする功利主義は、人間を効用の「入れ物」としてしか見ていない──「それぞれの人格は、内的な価値を有する経験〔=効用〕が生じる場所であって……いわばそうした経験を入れる容器であると考えられている」(中略)。
 したがってロールズにおける「秩序ある社会の理想」は、功利主義のように上からエリートが管理・運営するような機関ではなく、構成メンバーの同意と相互利益によって下から支えられている社会(カント流にいえば「諸目的の王国」)を構想しようとするものである。

 ロールズの正義論は、サンデルによって「正義」へと向かう第二のアプローチ──リベラリズムとして整理されており、その構想が、「負荷なき自我」(あらゆる人生の目的に先行した、純粋な選択・所有の主体)という自我像に支えられていること、また、各種の道徳的行動は、それが当事者から自律的に選択されたものでない限り確固とした基盤をもつものとはならないことから、否定的に論じられている。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

 格差原理が、自立的な諸個人を基盤とする仕組みの均衡(マクシミン解)として生じ得ると考えることが困難であることは、本書にも取り上げられている『正義論』への数々の批判からも、おおよそ明らかである。現実においても、震災以来「絆」という言葉を日々目にする一方で、厳格な個人主義によるのでなければ肯定することが不可能な財政拡張に対する批判(ことに、相続税等資産課税に係る増税への反対)もあり、現実に、これらが世論として共存している。他方、厳格な個人主義に立った主張を一方では行いつつ「絆」(ことに、国レベルでのそれ)という概念を肯定的に用いるのは論理矛盾であり、「ああ言えばこう言う」的な議論遊びに過ぎない。また、多かれ少なかれ誰もが求められることになる「負担」を利己的な個人間の契約として理屈付けることは、粋狂な試みとして人目に引くこともあるかもしれないが、いずれにせよそうした一種の論理遊びは、「美徳」とか「他者への責任」とかいった曖昧な概念によって一蹴されることになるだろうし、その結果が社会不安を利用した危険な「動員」につながる可能性もある。

(未了)