ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

由良君美『椿説泰西浪曼派文学談義』ほか

椿説泰西浪曼派文学談義 (平凡社ライブラリー)

椿説泰西浪曼派文学談義 (平凡社ライブラリー)

 最近の読書は、以前よりも経済書が少なくなり、それ他の論説文や随筆などが増えている。その理由は、子供がこの本が読みたい、あの本が読みたいといったような話をするようになり、自分も少なからずそれに影響を受けているためである。内田樹『先生はえらい』や外山滋比古『「忘れる」力』、向田邦子『字のない手紙』といった中から文章がテストなどに引用されると、その続きが読みたくなる・・・という流れから、読みたい本がきまってくる。そうすると、それを買う自分も同じ本を読むことになる。
 例えば、外山滋比古といえば代表作は『思考の整理学』、ということで、まずは自分が読んでから子供に与えてみる。確かに読みやすい文章で、著者の意見にあたる要素も明確であり、テストに引用されるというのもよくわかる。たまプラーザ駅の構内にある有隣堂は、季節柄か、中学受験によく出される作家のコーナーが書店内の目立つ一角を占めており、それをみると、『思考の整理学』は実際にいくつかの中学の試験に取り上げられたようである。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 外山滋比古も面白いことは面白いが、 こういう読みやすい文章を読んでいると、若干の食傷感を覚え、知識偏重的な文章も読んでみたい気分になる。そこで、同じ英文学者という連想から由良君美の名前が浮かび、手に入れることの容易なところから読んでみることとした。
 由良の名前を連想したのは、「ご多分に洩れず」というべきか、四方田犬彦『先生とわたし』を読んだときの記憶が残っていたためである。

先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)

この「公開メモ帳」の中にも記録を残しているが、すでにそれから5年がたつ。当時は、ネットのどこかにこの本のことが淡々と触れられていて、それがどういう文脈で注目されていたのかなどあまり考えず、ただそこに触れられているという事実をクレジットとして読んだ記憶がある。実際、その記録は当時の自分の気持ちとフィットする文章を本の中から選び出し、なんとなく感傷的な気分でそこに引用しただけのひどいものである。
 おそらく、ネットの片隅でそれに触れた人は、その情報網から仕入れた話をもとに、当時の(素直な)自分とは違った読み方をするためにこの本を手に取ってみたのだろうし、実際、この本と著者の四方田に対する非難と賞賛がこもごもとしていることは、別の識者のサイトで触れられている*1。また、本の中では巧妙に隠されており、わかる人にはわかるような細部の記述もあるんだろう。あえて触れられていない重要な事件があったことや、著名な仏文学者、映画評論家と著者との確執のことなども、上述のサイトには記述されている。
 なお、改めて『先生とわたし』を読んでみたが、特に前半部分については優れた評伝といわざるを得ず、自分のように文学に馴染みもなく、特に興味を持とうという意識もない者にも、由良君美という人物を強烈に印象付けるに余りある内容である。実際、今回立て続けに由良の本を読んだのも、この本の印象が強く残っていたからである。
 ところが、ヴェルギリウスの章になると、不必要なまでに師の資質を貶めている印象があり、それと対照的に、自身の「凄さ」を印象付けるものになっている。上述のあるサイトには「彼は自分がいかに偉いかを書きたいがためにものを書く物書きなのである」という言葉が引用されているが、それもあながち嘘とはいえないように感じられる。由良君美の語学力に関する記述など、所詮は「死人に口なし」なんだろうし、稲賀茂美によるあとがきにも「ちくり」とする記述がある。前半の評伝がとても「読ませる」ものであるだけに、やや残念な気もする。

 さて、上述のサイトには、この本を、前に触れた内田樹『先生はえらい』をもとに論評した文章が出てくる。よく似たタイトルの本であり、それを意識して書かれた本ではないか、といった印象すら持つかもしれないが、実際にはこの本は2005年1月の発行であり、『先生とわたし』から2年あまり先立っている。

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 この本を読んで真っ先に意識する面白い記述は、生徒たちが聞く先生の言葉は、全員が別の言葉であり、なぜならそれは同じ言葉であっても解釈が違うからだ、というところである。それを起点にして、学ぶことに対する姿勢が学びを可能にするという同書の趣旨につながっていく。この考え方は何かに似ているな・・・という風に思い出してみると、 外山滋比古に『異本論』という作品があることが『思考の整理学』に触れられている。

人間は、正本に対して、つねに異本を作ろうとする。Aのものを読んで、理解したとする。その結果は決してAではなく、A’、つまり異本になっている。文学が面白いのはこの異本を許容しているからである。六法全書を読んでも、小説のようにおもしろくないのは、法律では異本をほんのすこししか許さないためだ(法律でも、解釈をめぐって議論があるのは、異本がまったくないわけではないことを物語っている)。

由良の本にも、この本のことがちょっとだけ触れられていた。

 最近はこうした連想を続けながら、また、子供の学習の進捗管理と平行しつつ読書をしている。『先生はえらい』を読んだ子供は、内田作品は面白いという。面白いといいつつ内容にあまり触れようとしないところをみると、恐らくその文体に魅力を感じているのではないか。自分も、初期の作品を読んだときの記憶から、思い当たる節がある。内田作品は、ベストセラー『下流志向』を読んで以来、ブログを含めあまり読まなくなった。最近書店で、初期の作品がすでに数多く文庫になっていることがわかったので、興味の持てる範囲で買い揃えてみようと思っている。
 このエントリーは、由良君美『椿説泰西浪曼派文学談義』ほか、ということで書き始めたものの、作品の内容に立ち入ることができなかったので、[雑感]カテゴリーに置くこととする。