備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ダイアン・コイル(高橋璃子訳)『GDP 〈小さくて大きな数字〉の歴史』

 GDP(国内総生産)とは、一国経済全体で一年間に産み出された付加価値の総額を示す指標であり、企業でいえば、一般会計基準に基づき作成される財務諸表のように、国連が定める「国民経済計算体系(System of National Account)」に準拠した国内基準に基づき作成する「国民経済計算」の中で計算されている。総じれば、市場経済における取引額から中間投入分を控除したものであるが、帰属家賃など、市場取引を伴わないサービスの生産分も含まれる。帰属家賃では、持家を賃貸借に投じたものとして自家消費した分をサービスの生産とみなし帰属計算するが、一方で、家事労働のように帰属計算しないサービスもある。このため、本書の事例にあるとおり、ハウスメイドと結婚すれば、提供されるサービスは同じであってもその分GDPは減少する。また、政府が提供するサービスには価格が存在しないため、費用によってその生産額が計算される。このように、国民経済計算体系の中での「生産の境界」は、必ずしもすべての人が納得し得る客観的なものではない。
 本書では、GDPの計算方法に内在するさまざまな技術的問題が指摘される。ただし、GDPを検討することは、必ずしも技術的な議論を行うにとどまるものではない。GDPを検討することとは、「経済」とは何か、「豊かさ」とは何か、といったより大きなスコープを必要とするものである。その一方、GDPを計算する基準について、一般の人々どころか経済の専門家でさえその詳細を理解しているわけではない。このため、本書にあるような生産性をめぐる「的を射ない」議論が行われたり、あるいは、費用対効果を考慮せず闇雲にGDPの信頼性を疑う向きも現れる。他に類書が見当たらない中で、本書は一般のGDPに対する理解を促すものとなっており、同時に、経済政策の(カッコ付きの)「新機軸」が次つぎと繰り出される中、時宜を得た出版企画ともなっている。

 本書では、国民経済計算体系の成立とその見直し、GDPに対する批判などの流れを5つの時代に区切ってみていく。18世紀、経済学の黎明期において、アダム・スミス国民所得に貢献するのは物的な生産物だけでサービスは含まれないと考えた。ところが、その後の新古典派*1では「物質的な富」と「非物質的な富」とは区別されなくなる。米国で最初に国民所得の推計に関わったクズネッツは、広告、金融、投機など人々の便益につながらない消費*2は差し引くべきことを主張した。こうしたGDP黎明期の議論は、現代のGDPをめぐる議論にも通じていると著者は指摘する。国民経済計算の基準が作られたのは、第二次大戦後、マーシャル・プラン実現の必要に迫られたためであるが、この基準に基づいた国民全体の統計の成立は、ケインズによる一国経済論の確立とも相まって、マクロ計量モデルを用いた経済政策によって経済の諸変数はコントロール可能であるという「幻想」につながっていく。
 この「幻想」が打ち砕かれたのは1970年代である。著者はその理由を、政治家や官僚にとって「需要管理という道具はあまりに便利」だったことにあるとし、GDPは、そもそも政策のハンドル操作で増加するように作られていることが見過ごされてきたとする。所得向上への人々の期待が続く中でオイル・ショックが起こり、低成長、景気後退、急激なインフレの組み合わせというスタグフレーションが生じる。ケインジアンに対する信用は薄れ、規制緩和や民営化などに徹するべきとする新しい考え方が広がった。
 1980年代、「ニューエコノミー」ブームの時代には、サービス業の生産の測定やイノベーションの測定が課題となる。一般に、物価統計は質の向上を掴みきることができず、上方バイアスを持つ。GDPの実質計算においてこの点を改善するため、ヘドニック物価指数が採用される。また、企業によるソフトウェア購入が中間投入から投資に変更された。こうしたことで、実質GDP成長率は見かけ上大きくなった。米国経済は「ニューパラダイム」の成功に酔いしれる。
 金融危機の後、金融機関の破綻を防ぐため多額の税金が投入され、大規模な金融緩和が行われたが、その背景にあったのは、金融部門は規模が大きく、GDP、雇用、税収、国際収支に大きく貢献しているという常識だった。しかし経済統計において金融が正しく把握されているかどうかについて、著者は懐疑的な見方をしている。金融仲介サービスは運用利率と調達利率の利差によって「付加価値」を産むとし、これを間接的に推計したFISIMという概念は93年版の基準で導入され、その分金融のGDPは拡大することになった。ただし、FISIMはリスクをより大きくとれば増加する*3。金融機関はむしろリスク管理が重要なのであり、現在の基準は、商業銀行のサービスのアウトプットを過大評価している可能性がある。

 このようにGDPには、計測上の課題は数多く残されており、各時代ごと、経済に対する理解を歪めることもあった。最近では、GDPと幸福度の関係についてさまざまな議論がなされており、「GDPの伸びが人々の暮らしや社会福祉のレベルを正しく反映しない」との意見がある。しかし著者は、今回の金融危機はGDPを卒業し「経済」の理解と測定法を新たにするための転換点になるのか、との見方に対して、GDPを今すぐ投げ出すべきではないと応える。GDPの測り方は、経済の在り方が変化するのに寄り添って変わっていく。今後の課題として、著者は(1)経済の複雑さ、イノベーション、(2)サービス・無形資産、無償の活動など、(3)持続可能性、環境や資源の保全、という3つの領域をあげている。

 ところで、本書の出だしはギリシャにおける統計データの改竄についてである。ギリシャでは、数値に対する政府の干渉があった。もしもこのようなことが生じば、GDPの計測上の課題もすべて砂上の議論となる。ちなみに日本では、統計法につぎのような条文がある。

第六十条
 次の各号のいずれかに該当する者は、六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
一 第十三条に規定する基幹統計調査の報告を求められた者の報告を妨げた者
二 基幹統計の作成に従事する者で基幹統計をして真実に反するものたらしめる行為をした者

 このような制度上の正確性確保措置がとられていれば、仮に数値に対する政府の干渉があったとしても、担当者はその責任への畏怖から従順であることはできない。隠蔽しようとしても、今の時代、内部告発はごくありきたりである。一次統計の場合は、個票の二次利用によって不正を暴くことも可能である。GDPは一次統計等をもとに既定の基準により推計される加工統計であるが、その基準は、国連等が定める基準に準拠している必要がある。また、それを変更する場合も、法律上、専門家(統計委員会)の意見を聞いた上で行う必要がある。
 こうした仕組みがあり、数値に対する信頼性があるからこそ、GDPの在り方や経済の現状についてのまともな議論が可能なのであり、あるべき政策の新機軸を打ち出すことも可能になるのである。

*1:アダム・スミスは古典派に整理される。労働価値説をとる古典派に対し、新古典派では限界効用が価値を決定するとされる。

*2:本書では、ウェブレンのいう顕示的消費について言及されている。特に金融の過大推計の可能性について指摘し、具体的な改善案が提案されている。

*3:FISIMにおける信用リスクの取り扱いは、2008年版の基準において課題となっている。