備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

石原千秋『大学受験 のための小説講義』

大学受験のための小説講義 (ちくま新書)

大学受験のための小説講義 (ちくま新書)

  • 同じ文章でも小説と評論では読み方が違う。評論は書いてあることが理解できれば読めたことになるが、小説は書いてないことを読まなくては読めたことにならない。
  • 大学受験の小説では、「書いていないこと」が問われ「行間を読む」ことが求められる。これは「想像力」の仕事。センター試験の小説では、出題者と〈読みの枠組み〉がズレると、全問不正解の憂き目に会うことさえある。
  • 「書いていないこと」は登場人物の「気持ち」。これにはリアリズム小説に関わる二つの理由がある。
    • リアリズム小説は目に見えるものだけを「客観的」な「事実」として書く技法により成り立つが、「事実」が人生にとってどういう意味を持つのかは人の「気持ち」(内面、自我)が決める。「事実」が人生にとって持つ意味こそ「真実」。
    • 小説の言葉はもともと断片的で隙間だらけ。読者は知らず知らずの間に言葉の隙間を埋めている。読者の解釈で言葉の隙間が埋め尽くされ、それ以上新しい読み方を生まなくなれば、それは小説の死。言葉の隙間が多く隠されている作品が古典の名に値する。
  • 小説の中で、〈モノ〉 が何の意味も持たず存在することはあり得ない。必ず何らかの微妙なニュアンスを帯びて使われる。慶應義塾大学=卒業後旧財閥系大企業に就職するエリート、女性の扱いに慣れたスマートな学生等。
  • 「気持ち」はそこにあるものではなく、「こう読みたい」という期待に沿って読んだ読者が作るもの。あらかじめそこにあるような錯覚を持つのは、「気持ち」を作る作業を読者が意識化していないため。小説は粘土のようなもので、読者はそこから好みの「物語」を読み取る。
  • フランスの批評家ロラン・バルトによれば「物語は一つの文」。その基本形は二つあり、①「〜が〜をする物語」=主人公の行動を要約したものと、②「〜が〜になる物語」=主人公の変化を要約したもの。読者が読み取る「物語」 の違いによって、主人公さえ入れ替わることがある。「小説が読める人」とは、「物語」の働き に意識的な人。一つの小説から出題者と同じ「物語」を取り出せる人が、受験小説の「出来る人」。
  • 受験小説では、小説の言葉と解答の言葉に本質的な違いがあるため、現実らしく見せた小説の表現を抽象的な言葉に「翻訳」しなければ解答が出来ない。抽象化とは、言葉から得たイメージを、二元論的な思考の枠組みによって、自分の所属している〈世界〉のどこかに位置付けること。そのためには〈世界〉が自分の手の中に入っていなければならず、抽象化とは、〈世界〉の全体像を手に入れることでもある。それは、「自分とはなにか」という問いに答えることでもあり、したがって抽象化する行為はアイデンティティの問題(自己同一性=自己と他者を区別する中で「自己とは何か」 を問う問題)をも引き寄せる。
  • 学校空間の物語は家族のメタファー(比喩)として読む。先生と生徒の関係を「擬似的な父娘の物語」として読む等。フロイト的家族は「血」と「性」によって成り立ち、子が親と「同じ」になることを「成長」と位置付ける。
  • 記号式の設問を解くための五つの法則は、以下の通り。これらの法則と消去法を組み合わせて解くのが、センター試験の小説の鉄則。
    • 「気持ち」を問う設問には隠されたルール(学校空間では道徳的に正しいことが「正解」となる)が働きがち。
    • そのように受験小説は「道徳的」で「健全な物語」を踏まえているから、それに対して否定的な表現が書き込まれた選択肢はダミーである可能性が高い。
    • その結果、「正解」は曖昧模糊とした記述からなる選択肢であることが多い。
    • 「気持ち」を問う設問は、傍線部分前後の状況 についての情報処理であることが多い。
    • 「正解」は似ている選択肢のどちらかであることが多い。ただしこの法則は、中学・高校入試国語ではそのまま使えるが、大学受験国語では裏をかかれることがある。