備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』

昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実

昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実


凄い本である。戦後の「55年体制」は昭和とともに終焉、そのきっかけとなったのは、社会党、総評(日本労働組合総評議会)と、それを足下から支えた国労国鉄労働組合)の衰退によるものであったことは、よく語られる物語であるが、そうした「大きな物語」を遠景に置きつつ、国鉄日本国有鉄道)の当局と労働組合、それぞれの政治家やマスコミ等との関係が、丹念な調査・聞き取りを経て、忠実に描き出されている。
著者は日経新聞出身のジャーナリスト、昭和39年(1964年)に社会部記者として、そのスタートを切ったとのことである。本書は昭和41年、輸送方式の近代化に伴う「5万人合理化計画」と、それをめぐる労働組合ストライキの話から始まる。当時の国鉄総裁は「粗にして野だが卑ではない」の発言で、その名が知られている石田禮助、組合の指導層には富塚三夫、細井宗一がおり、細井は、陸軍で田中角栄の上官であったことから、その後も関係が続いたとのことである。

国鉄など、かつて「3公社5現業」と称された公共企業体は、組織統制や経理の仕組み等がどのようなものであったか、今では簡単に調べることができないが、半官半民の「鵺のような」存在であったと考えられる。特に国鉄は、組織は肥大化、中央と地方それぞれが経営に対する政官・組合の介入を許した結果、昭和62年の分割・民営化直前には総計37.3兆円の累積債務、9.3万人の余剰人員を抱えるまでになっていた。
国鉄当局は、組合のストライキサボタージュによってダイヤが乱れ、社会的批判を浴びることを恐れる一方、組合は、当局の処分による解雇等の恐れから脱退者が生じ、組織基盤が揺らぐことを恐れるという、双方が弱みを抱える関係にあった。先の「5万人合理化計画」時に、組合がスト中止の見返りに得た「現場協議制度」は、特に生産性向上運動の失敗の後、職場において管理者の統制が効かない状態を生んだ。本部が組合と安易に妥協することで、現場の管理者は「梯子を外された」状況にも陥る。時には、人事への組合の介入もあったとのことである。「現場協議制度」は、14年後、「体制護持派」の太田知之によって、ようやく実質的に破棄される。

こうした記述は、公共企業体のような営利企業ではない組織体は、そもそも制度として、いずれは立ち行かなくなることを窺わせるに十分である。

新左翼との関係

国鉄労働組合には、国労の他、動労国鉄動力車労働組合)、鉄労(鉄道労働組合)などが存在したが、総評に属し闘争的な運動を展開したのは国労動労である。これらと新左翼との関係について、国労中核派と関係があった一方、動労、特に委員長の松崎明革マル派の関係には、より深いものがあったことを窺わせている。分割・民営化の過程で、国労が最後まで当局と妥協せず、最終的に主流派と反主流派の分断を招いた一方、動労は委員長松崎の「コペルニクス的転換」によって、最後まで生き残った。
国労の分断が起きた修善寺臨時大会は、自分にも、当時テレビで見た微かな記憶がある。作業着を着たパンチパーマの組合員がドスの効いた野次を投げる様子には驚かされたが、今となっては、これも昭和の名残である。国鉄改革を進めた「3人組」の1人である松田昌二の証言にも、「昭和だな」という思いを起こさせるものがある。

当時住んでいた埼玉県与野の自宅ではプロパンガスの周辺に幾本ものマッチ棒がばらまかれていた。組合の街宣車は近隣を練り歩き『松田は大悪人』と大音量で流し続けた。社内に泊まり込みを続けると『浮気をしている』とデマも流された。ある時、同居している長女の息子が極度に水を怖がることを知った。理由を尋ねると、近隣のプールで指導員とおぼしき人物に無理やり顔を水に押し付けられたという。孫にまでの陰気ないじめにはさすがに慄然とした。

マスコミ等を利用した「情報戦」

国鉄当局と労働組合、あるいは国鉄当局の幹部間の闘争も克明に描かれるが、マスコミや政治家に対する「情報戦」に関する記述は興味深い。こうした「情報戦」は、今の時代においても、(表向きは語られないものの)普通に行われているものだろう。
生産性向上運動(マル生運動)をめぐっては、現場管理者の不当労働行為に相当する発言を組合が録音、新聞沙汰になったことがきっかけで社会党が国会で追及、当局は「全面撤退」に追い込まれた。国鉄改革をめぐっては、改革派の「3人組」が国鉄労使双方の不祥事を積極的にマスコミに流し、国鉄当局の主導権が「穏健派」から「国体護持派」に移るきっかけを作っている。
いかに早く相手の出方を理解し、それに対する反論を作成、政治家に対する「根回し」やマスコミ工作を行うか、という点において、改革派の動きは素早く、その思いには鬼気迫るものがあったのだろう。今の時代も、こうした工作は日々行われていることを前提に、大過なく、日々生活して行く必要があるだろう。

真の失業率──2019年5月までのデータによる更新

完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

5月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は2.4%と前月と同水準となったが、真の失業率は1.6%と前月から0.1ポイント低下した。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において、真の失業率は基準年*1である1992年より改善していることとなる。

所定内給与と消費者物価の相関に関する4月までの結果は以下のようになる。サンプル替えの断層により、一般労働者の特別給与が減少、パートタイム労働者比率が上昇したことで、賃金は1月に大きく減少したが、その後は物価・賃金ともに上昇基調に回復した*2

(参考エントリー)

(真の失業率のデータ(CSV)が必要な方はこちらへ)
https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

*2:2018年11月分結果確報より、毎月勤労統計の所定内給与は、東京都の500人以上規模の事業所分を復元して再集計した値(再集計値)に変更された。当ブログでもこれを取り込み、数値が存在しない2011年以前の指数については、従前の集計値に2012年のリンク比(再集計値/旧集計値)を乗じた値とし、季節調整値を算出した。

石川拓治『茶色のシマウマ、世界を変える 日本初の全寮制インターナショナル高校ISAKをつくった 小林りんの物語』

タイトルの通り、全寮制インターナショナル高校であるISAK(インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢)を資金も組織も無い「ゼロ」の状態から立ち上げ、これを日本の学校教育法第1条に該当する「高校」として開校するという前例のない事業を成し遂げた人物の物語。本書に記載はないが、ISAKは2016年にUWC(ユナイテッド・ワールド・カレッジ)の加盟校として承認されており、名称も”UWC ISAK JAPAN”と標記されている。著者の石川拓治はフリーランスライター。恐らく資金的課題のあるISAKのため、現在は代表理事となった小林りんを取り上げ、その知名度を高めるよう協力する意図のもと、本書を著したものと思われる。他にも小林に対し協力を惜しまない人々が本書には数多く登場するが、このようにいつの間にか周囲の人々を協力者に変えてしまうところが彼女の魅力であると著者は論じる。

小林の経歴は華々しい。高校2年で東京学芸大学附属高等学校を中退し、カナダのUWC ピアソン・カレッジに入学。卒業後は日本に戻り東京大学に学士入学、経済学部を卒業。その後は、モルガン・スタンレー日本法人、ネット系ベンチャー企業ラクーン取締役、国際協力銀行スタンフォード大学国際教育政策学修士課程、国連児童基金UNICEF)プログラムオフィサーをそれぞれ1〜2年従事、それぞれ惜しまれつつ次の活躍の場に移っている。2009年にUNICEFを退職後、ISAK設立準備団体の代表理事に就任、当初はほぼ無給で務め、現在もその運営に関わる。

本書の中に、学校開設に当たって、「有りふれた物語」となり得るような「官僚主義」「レッドテープ」との戦いの物語は殆ど現れない。文科省や長野県、内閣府はむしろ協力的である。しかしそれは当然のことで、「官僚主義」とは、制度に適合している限り寧ろそれを認める方向へ志向性を持つものである。ボランティアにより構成される設立団体は、試行錯誤しつつも効率的かつ的確に事務を進めたことが窺える。また、特に文科省は、制度に欠陥がある点を理解しつつ、設立に協力したのだろう。最後に長野県私学審議会の「嫌がらせ」を受けるが、議長は審議委員の意見を受け流しつつ事務的に審査を通過させる。

UWC入学のための面接

UWCは、ドイツ人教育者クルト・ハーンが1962年、イギリス・ウェールズにアトランティック・カレッジを創設したのが起こりで、本部をロンドンに置くインターナショナルスクールの集合体であり、国際バカロレア(IB)に沿った教育プログラムを実施する。日本では、UWC日本協会(日本経団連が運営)が入学する学生の選考と奨学金の支給を行う。自分がその存在を知ったのは、昨年ある塾の説明会で、UWCインド校に進学、同校中IB最高得点で卒業、その後イギリスの大学(医学部)に進学した卒塾生が話題として取り上げられた時で、説明会ではその卒塾生のことを「漸くこういう人物が出るようになった」と絶賛していた。

本書の主人公である小林りんは、学科試験合格後、3人の外国人の面接官による面接に臨むが、その際の印象について次のように話している。

「・・・英語は得意なつもりでいたけど、ぜんぜん喋れなかった。英語の語彙がないから、もうほとんど身振り手振り見たいな。高校生だし、小難しいこと言いたいじゃないですか。日本語もずいぶん交じってたと思います。まったく英語の面接になっていなかった。だけど、今、自分が英語の面接をやってても、正直な話、英語力なんてぜんぜん見てないんです。それよりも、この子がサバイブできるかどうか。母国が通じない環境で、押し潰されずに頑張り続けられるかどうかを見てます。その時の私も、英語はぜんぜんだけど、サバイバル能力だけはあると判定されたんだと思う」

ピアソン・カレッジのカリキュラムでは、2年間でIBのディプロマの資格を取ることができ、世界の主要大学への入学資格が得られる。本書にはUWCの授業の様子や、それに増して、夏にルームメイトのメキシコの自宅に宿泊した際の話など、多様な文化を経験できるUWCの環境が描かれる。こうした経験の中で、生徒達には貧困など世界の課題に対する強い意識と志向性が培われるのだろう。

ISAKのリーダーシップ教育

ISAKを開校するに当たり『リーダーを育てる学校』が教育目標とされたが、「リーダーシップ教育」の意図は当初は曖昧だったようで、サマースクールの実施など段階的に学校設立を進める中、それが次第にはっきりしてくる様子も描かれる。「リーダー」について、世界に変化をもたらすことができる人間という意味で「チェンジメーカー」とも言い換えられている。

「リーダーシップ」とは何かに関し、関係する逸話として、サマースクール参加者の選考においてネパールの少女をスカイプでインタヴューした際の話が出てくる。少女は「今までに発揮したリーダーシップについて話してください」との質問に対し、「ゴミの分別収集を始めました」という有りふれたテーマで答えた。

 彼女の住む集落は、学校まで片道一週間というネパールでもかなり奥地にあった。険しい山道を辿り、川を渡り、峠を越え、一本の細い筋に過ぎないような道なき道を一週間もかけて歩いて、ようやく寮制の学校のある街に着くのだそうだ。だから、スカイプでの面接は8日後になったのだった。
 電気も水道も来ていない彼女の村にも、街からの物資が届き始めていた。フィリピンでもそうだったように、グローバリゼーションは清涼飲料水のボトルを毛細血管に運ばれるヘモグロビンのように、世界中のどんな僻地のどんな小さな村にも送り届けるようになっていた。その毛細血管を伝わって、金属やビニール、プラスチックなどの未知の物質が村に流入した。
 大人たちはそういうゴミを、そこら中に無造作に捨てた。彼らにとってゴミとは、捨てればいつの間にか自然に溶け込んでしまうものだったから。
 けれど少女は学校で学んで、その文明の発明品は彼らの父祖が長年慣れ親しんだ自然の産物とは違うことを知っていた。森や川に無造作に捨てられたビニール袋やプラスチック製品は、これから何十年もそのままそこにあり続けるだろう。
 そういうゴミは毎年増えていった。このままでは大きな問題になる。危機感を抱いた少女は、大人たちを説得して回った。
 彼女の属している社会で、それは簡単な仕事ではなかった、新聞もテレビもないネパールの奥地の村に、少女の意見であろうとそれが正しければ共同体を動かすような風通しのいい民主主義の仕組みは存在していなかった。
 いや、考えてみれば、今の日本においても、それは簡単なことではないはずだ。中学生の女の子が、何百年も続いた共同体の生活習慣を変えようとしたのだ。不可能と言ってもいいかもしれない。
 ところが、そのネパールの少女は根気よく、時間をかけて、文明がもたらした新しいゴミの性質について大人たちを啓蒙し、問題意識を喚起し、解決策としてのゴミの分別収集を提案し、ついにはそれを村全体に受け入れさせることに成功する。
 なんという少女だろう。
 これをリーダーシップと言わずして、何をリーダーシップと呼べばいいのだろう。

本書は最後に、小林りんの半生とISAKにおけるリーダーシップ教育に想いを馳せつつ、我々の今の教育は忍耐や頑張ることに比重を置き過ぎていないか、忍耐力を発揮する前に、自分は何をすべきかという問題を、もう少し丁寧に考える必要があるのではないか、と問題提起する。読後感としては、安定よりも多様性のある環境が変化をもたらし得る新しい知識やリーダーを創り得る、ということを実感させられる。

真の失業率──2019年4月までのデータによる更新

完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

4月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は2.4%と前月から0.1ポイント低下したが、真の失業率は1.7%と前月と同水準となった。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において、真の失業率は基準年*1である1992年より改善していることとなる。

(追記)

所定内給与と消費者物価の相関に関する3月までの結果は以下のようになる。物価および賃金はともに上昇基調であるが、1月以降、賃金は大きく減少している*2。賃金の減少は、サンプル替えの断層により、一般労働者の特別給与が減少、パートタイム労働者比率が上昇したことが主たる要因とみられる。
なお、昨年7月以降の賃金の微修正分は、今回の推計から反映した。

(参考エントリー)

(真の失業率のデータ(CSV)が必要な方はこちらへ)
https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

*2:2018年11月分結果確報より、毎月勤労統計の所定内給与は、東京都の500人以上規模の事業所分を復元して再集計した値(再集計値)に変更された。当ブログでもこれを取り込み、数値が存在しない2011年以前の指数については、従前の集計値に2012年のリンク比(再集計値/旧集計値)を乗じた値とし、季節調整値を算出した。

真の失業率──2019年3月までのデータによる更新

完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

3月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は2.5%と前月から0.2ポイント上昇したが、真の失業率は1.7%と前月から0.1ポイント低下した。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において、真の失業率は基準年*1である1992年より改善していることとなる。

所定内給与と消費者物価の相関に関する2月までの結果は以下のようになる。物価および賃金はともに上昇基調であるが、1月のサンプル替え後、賃金は大幅減少し、断層的な状況が生じている*2

(参考エントリー)

(真の失業率のデータ(CSV)が必要な方はこちらへ)
https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

*2:2018年11月分結果確報より、毎月勤労統計の所定内給与は、東京都の500人以上規模の事業所分を復元して再集計した値(再集計値)に変更された。当ブログでもこれを取り込み、数値が存在しない2011年以前の指数については、従前の集計値に2012年のリンク比(再集計値/旧集計値)を乗じた値とし、季節調整値を算出した。

真の失業率──2019年2月までのデータによる更新

完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

2月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は2.3%と前月から0.2ポイント低下したが、真の失業率は1.8%と前月と同水準となった。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において、真の失業率は基準年*1である1992年より改善していることとなる。

(参考エントリー)

(真の失業率のデータ(CSV)が必要な方はこちらへ)
https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

ヨーロッパ女子数学オリンピックについて

ヨーロッパ女子数学オリンピックとは

前回のエントリーでは国際数学オリンピック(IMO)を紹介したが、今回は、その派生イベントであるヨーロッパ女子数学オリンピック(EGMO)を紹介する。前回みたように、日本のIMO出場者を過去29年間、延べ174人についてみると、女子は延べ3人(実人数では2人)と性別に大きく偏る。これは日本に限るものではなく、「全世界的にも女子の参加者は、男子の1割程度」(参考の藤田論文参照)とのことである。日本はそれと比べても、単純計算で2%弱とさらに少ない。

女子のみの参加による数学オリンピックとしては、先ず、中国の国内大会として2002年に中国女子数学オリンピック(CGMO)が始まった。その後、CGMOには他国の選手団が招待されるようになり、日本は2011年から参加した。しかし、2013年は鳥インフルエンザの問題などで中国からの招待状も届かず、不参加となった。

EGMOは、CGMOをモデルとしつつも当初から国際大会として始まり、第1回は2012年にイギリス・ケンブリッジで開催された。対象国はヨーロッパの国々に限定されているが、ヨーロッパ以外の国も承認されれば参加することができる。日本の数学オリンピック財団は、「中国の国内大会であるCGMOよりも国際大会としてIMOに準じるEGMOに参加する方が、日本の数学界における女子選手の育成に大きな効果があると判断」し、2014年トルコ・アンタルヤ大会から参加した。

EGMOには、各国から選手4人を含む選手団が送られる(選手の選抜は各国別)。選手の資格や出題範囲、コンテストの方式は、概ねIMOに準じている。すなわち、

  • スクール・エイジの女子選手を各国別に選抜
  • コンテストは2日間実施され、各日3問を4時間30分で解き、1問7点、42点満点として採点
  • 出題分野は、①平面幾何、②整数論、③代数、④組合せ論の4分野
  • 各日3問ずつの問題は、問1、問2、問3(2日目は問4、問5、問6)の順に難易度が増す
  • スコアは個人別に集計

であるが、メダリストの基準は、参加者の上位1/12が金、続く参加者の上位1/6が銀、さらに続く参加者の上位1/4が銅となる。IMOと同様、メダルが授与されなかった場合でも、1問完答(部分点なしの7点)で特別賞(Honorable mention)が授与される。開催時期は、IMOが7月であるのに対し、それより早い4月に開催される。難易度は年によって違いがあり、前回2018年のフィレンツェ大会では易化の傾向があったようである。

国別順位では、IMOの強豪国である中国、韓国は参加しておらず、ロシア、アメリカ、ウクライナが近年、最多得点を得ている。日本は、第4回ベラルーシミンスク大会の8位が最高順位である。国別順位やチーム内メダリストの数について、選手の力量だけでなく、選手団の団長およびコーディネーターの力量が寄与する点については、IMOと変わりがない。

日本選手の選考過程

EGMOに参加する日本選手の選考過程をみると、先ず、11月に札幌、仙台、東京、大阪、福岡で一次選抜が行われる。参加資格は、高校2年生(または、それに該当する学年)以下の女子で、1月の日本数学オリンピックJMO)予選に応募する者、とされている。この一次選抜では、4問を4時間で解き、1問8点、32点満点として採点される。すなわち、JMO本選とは問数は異なるが試験の形式は同じであり、解答に至る過程が重要で部分点もある。また、解答のみ合っていても、過程に誤りがあればその段階で得点に至らない場合もある。ただし、大学入試難問程度の問題から正解者が見込めないような難問までというJMO本選の難易度と比較すれば組みし易く、少なくとも「正解者が見込めないような難問」は出題されていないようである。

一次選抜の結果、成績上位者約10名がEGMO日本代表選手候補者として選抜される。その後、1月のJMO予選の成績を加味し、日本代表選手が決定される。一次選抜の得点別人数及びボーダーの得点は数学オリンピック財団のサイトに公表されており、2018年11月は(欠席者13名を除き)65人が予選に参加、11人が候補者となった。

グラフの通り、一次選抜不合格者の人数は階級別にしかわからないが、グラフの形状をみる限り、得点を得るに至らなかった者が多数を占めているものと思われる。やや強引ではあるが、階級別の一次選抜不合格者をそれぞれ5点及び0点とみなし平均値、標準偏差を推計、正規分布を当てはめると、グラフのオレンジ色の点のようになる。多くの人に馴染みのある偏差値を仮に当てはめると、最高点30点は86.04、ボーダーの得点8点は56.84となる。

なお、一次選抜をクリアした約10人(2018年11月は11人)からJMO予選を加味し4人のEGMO日本代表が選ばれるが、その選考方法は非公表である。JMO予選では12問を3時間で解き、1問1点、12点満点として採点されるが、最高得点12点をボーダーの8点に単純に加えても20点と、4位の22点に満たないことから、単純に得点の合算で決めているわけではなく、傾斜得点化が図られているものと推察される。

EGMO日本代表選手の学校別人数

最後に、EGMO日本代表選手にそれ以前のCGMO日本代表選手を加え、過去9年間、延べ36人の学校別人数(延べで2名以上出場実績のある7校)をみると、つぎのようになる。

上位は洛南7人、桜蔭6人、神女5人となる。グラフは延べ人数であるが、実人数で複数人の出場実績があるのは、この3校のみである。都立2校からの出場者は嘗ての桜蔭在籍者であり(参考のブログ・エントリーを参照)、関東圏の理系女子は、ほぼ桜蔭の一強とみなして強ち間違いではないと思われる。

(参考)